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2011年12月9日金曜日

<一日一書>No.2(百七十一)「十二月八日 再び無謀な戦い」


『今日は木曜日。
天気は雨。』

さて、今日の話を始めよう。


  70年前の今日、私は小学校2年生で満8歳。朝からラジオは臨時ニュース、臨時ニュースと繰り返していた。

戦は聖戦であり、神国大日本帝国が負けることはない。また国が困難に陥れば、神風が吹き、必ず鬼畜米英に勝利する。八紘一宇の精神を以て現人神の御稜威を世界の果てまで届けるのだ、と教え込まれ、洗脳され、何ら疑いの念も持たなかった。

敗色濃厚となった昭和20年国民学校5年生12歳となった私は、それでも中学入学を控えて幼年学校か海軍兵学校を目指し、遠くない将来、お国のために喜んで命を捧げるのだ、自分の一生もそれまで、と心から信じ切っていた。

しかし、実際は負ける筈のない神国の、その上、現人神でもなかった天皇はラジオ放送で、分かり難く、聞き取り難い日本語で連合国に対し、無条件で降伏するという勅語を発したのである。

その時、既に米軍に占領されていた沖縄には米軍の基地が次々と設けられ、一方的に占拠され、奪われた島民の土地や住居は70年後の現在に至るまで、完全に返還されることなく、実質的にそのままの状態が継続されている。

占領地であるから、占領軍の関係者が、どんな大犯罪を起こしても、未だに、実質的な裁判管轄権は日本国沖縄県には無い。

現在の状況は、本当の意味で、日米間の占領状態が解除されたということにはなっていない。もし、そんなことは無いと言う人が居るなら、沖縄の現状は米国の「植民地」そのものということになり、それ以外に解釈の仕様はない。

70年前の無責任状態を放置し、検証も反省もしないまま、現在まで来てしまった、我が国の政治家や国家指導者は勿論、それを許容してきた我々日本人の全 ては、愚かな大戦争を浅慮にも開始した、当時の全ての無謀な日本国民を非難したり、批判する資格を既に喪失している、と考えられる。

その如実な現れが、今この国に発生した原子力発電所の大事故と、その対応、処理、解決に関する無能、不誠実、不適切、不当、無責任な振る舞いに集約され ていると言わざるを得ない。その上、将来に向かって根本的問題解決(たとえば、完璧な脱原発)を図ろうとする態勢が現実に始動していないのは、誠に残念で ある。慚愧に堪えない。

2011年12月3日土曜日

「詩をきっかけとして考える会」12月例会案内


 10月例会出席者は、H、N、S、A、TさんおよびJの6名。Mさんからは事前の欠席連絡。
 前日からの雨も上がり晴天となった。会場の加太民宿「大津屋」の前に横たわる青い海の前方には、友ヶ島をはっきり認めることが出来る。しかし、風が吹き、海上には白波が立っている。「折角の晴天だが、無理か?」という思いが頭をよぎる。
「大津屋」のオーナー船頭さんの出船判断は予想通りで、残念ながら、李梅渓のいわゆる巌額「五所石碑の図」を海上から鑑賞するという試みは今回は中止、機会をみて再度挑戦しよう、ということになった。


 会場を「大津屋」二階一室に移し、平岡氏持参の望遠鏡で、正面に横たわる島の岸壁を観察すると、文字の詳細までは確認出来ぬが、五所の文字の刻まれた輪郭部分を認めることが出来た。


 今回も、海南の郷土史家平岡繁一氏により友ヶ島五所額を中心に色々お話を伺う。李真栄が大阪方面から最初に連れてこられた和歌山の地が加太から遠からぬ松江であること、また梅渓七歳の時、父真栄と共に加太に遊んだ事跡と、遙か海上彼方の祖国に思いを馳せたであろう彼等の心情について語り合った。


 更に、エピソードとして朝鮮通信使のもてなしについて新井白石の倹約方針に対し将軍吉宗が、それに異を唱え、改めさせたという話はなかなか興味深かった。筆者などは倹約令の吉宗という印象が強いのだが、この話を聞くと吉宗が父や祖父たちの李真栄親子に対する処遇を肝に銘じていたのであろう、という推測も納得出来る。


 また、11月27日まで和歌山市博物館で特別展示されていた文人画家として知られる祇園南海が紀州藩(徳川光貞時代)に儒官として仕えた、という記録を識り、咄嗟に李梅渓との接点が展示品中に見いだせないか?と詳細に鑑賞したところ、出口のところで、最後に展示されていた木製扁額「龍」の反対面(表面)に李梅渓の「寿山」という字が書されているという事実を確認出来た。


 N氏からは、彼の母の生家「藤本家」に伝わっていた、李梅渓書の扁額の写真を記録した「熊野をめぐる文人たち」という冊子中の“紀州藩内の教訓”『父母状』作成者 李 梅渓”という一文が紹介された。


 本年は辛亥革命から100周年という。孫文が亡くなる前、最後に日本を訪れた際、政府は東京への立ち入りを拒み、止むを得ず孫文は神戸で「大亜細亜主義」をテーマに講演を行った。その最後部分がJより紹介された。


 曰く『貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、他面亜細亜の王道文化の本質をも、持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるのか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。』


 それから100年後、日本は孫文の喝破した通り、”詳密な考慮と慎重な採択”を本当に行ったか、否かすら甚だ怪しいものだが、今や将に覇権国家米国の鷹犬(ポチ)に成り下がっているのが、現実である。


 一方、2011年12月1日の朝日新聞「天声人語」には、沖縄の悲惨な歴史と現在に触れる、次のような記述がある。『(前略)▼1955年、沖縄を怒りで奮わせた「由美子ちゃん事件」の犠牲者は6歳だった。米兵に暴行された遺体は、海岸で雨に打たれ、手を固く握りしめていたという。他にも、基地の島で繰り返された性犯罪は数え切れない▼(中略)』、このコラムの最後は次のように結ばれている。『戦後、66年。押しつけておけば済む話では、もうない。』


 筆者は、このようなジャーナリストを含めた現在、大方の日本人が示す態度に怒りを禁じ得ない。このコラムにおいても、それは如実に示されている。つまり、その最後に続けて、「では、どうすればよいのか?」の問題提起と方向性に関する論点が全く提示されていないことだ。


 筆者の識る限り、日本国の沖縄県以外の都道府県で、積極的かつ実現可能な形で沖縄軍事基地を引き受けようと表明したところは皆無である。そうとなれば、次の論点は自明である。大方の日本人が認めようとしない覇権国家米国の軍事基地をこのまま放置し、自分(本土)は嫌だが、他人(沖縄)ならば押しつけて、己を誤魔化し続け、人間としての良心を放棄した状態で恬淡として些かも恥じることは無いのか?日本人(政治家から一庶民まで)の資質を根本的に問い糾してみたい。


 そこには、王道文化の片鱗すら見いだせないではないか。




 さて、次回12月例会は忘年会を兼ねて行う予定である。楽しい趣向を考えたい。今のところ、Tさんに小型ハープの持参をお願いしている。参加者のお得意の唄、詩の朗読、隠し芸などの準備、用意を期待している。


 また、来年度の企画、希望などもあれば、収集しておきたい。


 尚、忘年会では、昼食にSさん準備による魚の鍋が用意されるので、その実費を参加者全員の割り勘で負担する(2,000-2,500円/1人程度予定)。また、飲み物は別で事前に常任コーディネータが準備する(各自実費負担)。


 今回も準備の都合があるので、参加希望の事前申し込みを必要とする(但し、H、N、M、T、A、SさんおよびJは申し込み済みなので、キャンセルの場合のみ要連絡)。いずれの場合も12月17日(土)までに下記コーディネータまで。(文責:城 久道)




12月例会場所、集合日時は下記の通り。


   場所: Sさん宅 : 携帯:0X0-1XX7-X47X
    日時:12月20日(火)正午より


尚、自家用車で行かれる方は別だが、お酒を嗜む方は和歌山バス利用を推奨する。
集合場所:南海和歌山市駅 和歌山バス乗り場(11)、75系統 坂田行き11:18発に乗車。
下車停留場は「榎原西」、所要時間18分、料金320円(70歳元気パス利用100円)


M.T.  携帯:0X0-X68X-X13X
H.J. 携帯: 0X0-X65X-X04X

2011年11月21日月曜日

「詩をきっかけとして考える会」11月例会案内


 10月例会出席者はK、H、M、S、Y、Sh、TさんおよびJの8名。Nさんからは事前の欠席連絡。今回は温山荘関係者のSおよびYさんが参加され、いつもの小部屋では狭いので、隣の二回りほど大きい中部屋に会場を変更して開始。

前回に引き続き、海南の郷土史家平岡繁一氏により紀州藩に代々受け継がれて来た教育方針と言われる、いわゆる「父母状」、その実質的提案者である李梅渓や深く関わる徳川頼宣、光貞、後の将軍吉宗などにまつわる話を伺い、その中で書を良くした李梅渓の色々な扁額が話題となったが、中でも紀伊半島と淡路島にまたがる友ヶ島水道に散在する無人島群のうちの友ヶ島について、ウィキペディアにも『江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)の命令を受けた紀州藩の蘭学者(?儒学者の誤りか)、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における5つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。』という記載がみられる。

11月例会では、この友ヶ島(虎島)の巌額を海上から鑑賞しようという提案があり、常連メンバーShさんのお世話で、加太の民宿「大津屋」の持ち船に乗船させて頂けることになった。実物を観ながらの平岡先生の解説が期待される。

天候次第で、臨機応変に対応するが、予定通りであれば、小一時間ほどの海上鑑賞の後、「大津屋」の部屋に会場を移し、参加者の所感や平岡講師の補講を交えて会を進め、更に紀南すさみ町の旧家藤本家に所蔵されていた李梅渓の扁額についてのエピソードをメンバーのN氏より紹介して頂く予定。

その後は時間と参加者の希望と成り行きにより加太周辺を見学するか、あるいはJの用意する資料に基づいて、室内で例会を続けることにする。

尚、下船後、Shさん準備による弁当を大津屋で摂ることにしているので、今回に限り、例会に参加される方は事前の申し込みが必要。また、前回の予備連絡においても通知したように、船上鑑賞ご希望の方も事前申し込みを要する(但し、乗船定員制限あり。後2、3名の空席が残存)。

いずれも申込期限は11月22日(火)正午まで。申し込みは本記事に対するコメントにて。


 今回の例会では、弁当代約1,000円および乗船費用ならびに部屋代実費相当分を参加者全員の割り勘(約500円予定)で負担予定。

テーマに関心を有し、ご都合のつく方は奮ってご参加の程。(文責:H.J.)


11月例会場所、集合日時は下記の通り。

   場所: 加太海水浴場 民宿「大津屋」前 :073-459-1278
     日時:11月24日(木)午前11時までに集合(晴雨に拘わらず)

2011年10月20日木曜日

「詩をきっかけとして考える会」10月例会案内


9月例会出席者はK、H、M、S(途中より)、TさんおよびJの6名。Nさんからは事前欠席連絡。

(第1部)
例会には海南の郷土史家平岡繁一氏を迎え、紀州藩に受け継がれて来た教育方針と言われる、いわゆる「父母状」誕生の由来について、お話を伺った。
文禄の役における豊臣秀吉朝鮮出兵の折、捕虜となり、農奴とされていた李真栄が紀州藩主の侍講となり、その息子李梅渓は徳川光貞に儒官としてとして仕え、「父母状」が完成に至る経緯の前半について講話が為された。

(第2部)
YouTubeやUstreamからダウンロードした東京大学児玉龍彦教授、怒りの発言(厚生労働委員会での発言要旨)を初めとする原発問題関連の映像を視聴後、ディスカッションした。

(1)10月例会では、平岡氏に前回に続く「父母状」関連の話をして頂く。

(2)A. 原発と司法(訴訟の傾向)-10月19日付朝日新聞朝刊オピニオン「耕論」

B. プロメテウスの罠(研究者の辞表)-朝日新聞朝刊10月17日より3回連載中(特に第3回末尾にNHKディレクター大森淳郎氏の発言『戦時中の「勝った」「勝った」という大本営発表が、今の政府の「大丈夫」「大丈夫」と重なってしょうがなかった。』は、前回9月例会案内中で筆者(J)が述べた『<一日一書>(七十二)「大日本帝国 大本営」中で、大本営報道に翻弄され、日本人は70年前の惨憺たる歴史から何も学んで来なかったことの指摘、更にフリージャーナリスト上杉 隆氏の今後の日本について「この儘では、日本は終わりで、70年後に再び失われた歳月の大損失を思い知らされ、何も変革して来なかったことに思い至るであろう」という指摘に将に重なり合う』

C. 天野祐吉氏の<CM天気図>「ふつう」の発見

D. 大江健三郎氏の<定義集>【原発が「潜在的核抑止力」とは】 - 前例なき民主主義無視の論

以上について、Jより紹介したい。

また、資料として古くからの友人、M氏提供のゼオライト・ラボ情報(隠されてきた内部被爆の実態ほか)をここに添付するので、ご参照の程。

10月例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
       日時:10月25日(火)午後1時30分より
                                 TEL: 073-482-1899

<追伸>今、メルマガ金原から次の情報が伝達されました。

【緊急!】わかやまの瓦礫受け入れ反対のための「緊急拡散のお願い」メールが飛び込んできました(歌舞さんより)

以下に貼り付けてそのままご紹介します。


ご縁を頂いているみなさまへ
こんばんは。歌舞 こと にしでいづみです。

取り急ぎ、すでにご存知の方や、
すでにアクションを起こされている方もおられると思いますが、
その場合は、どうぞご容赦くださいm(_ _)m

10月7日に、環境省から各都道府県廃棄物行政主管部へ
震災瓦礫受け入れに関する「事務連絡」が送られました。
回答は、21日(明後日!)までとなっています。

その「事務連絡」という名の恐ろしい内容や
環境省地方環境事務所とのやり取り等については、
以下のブログに貼付けてくださっていますので、ご覧ください。

「院長の独り言」
ガレキ処理の自治体アンケート・・狡猾な罠

当然、和歌山県にもこの事務連絡は送られています。
時間があまりありませんが、何とか、一人でも多くの「住民側の反応」を各窓口に送りたいと思います。

今日、うちの事務所の人が、県内で窓口となっている連絡先を
ブログにまとめてくれました。

■緊急:わかやまの瓦礫受け入れ反対のブログ

仕事の合間に何とか仕上げてくれたものですので、
不備もあろうかと思いますが、
たった1本の電話でもいいですし、
単なる問合せでも抗議でもいいです。
FAXやメールなら、夜中でもできますので、
ぜひ何らかのアクションを起こして頂きたいと思います。

ということで、急ぎ、送信いたします。

乱文お許しくださいm(_ _)m

♪Love 歌舞 Peace♪

◯ 和歌山県環境生活部環境政策局環境生活総務課
電話:073-441-2670
FAX:073-433-3590
メール:e0320001@pref.wakayama.lg.jp

◯ 和歌山市 一般廃棄物課
電話:073-435-1352
メール: ippanhaiki@city.wakayama.lg.jp

◯ 海南市 環境課
電話:073-483-8456
メール:kankyo@city.kainan.lg.jp

◯ 岩出市 生活福祉部 生活環境課
電話:0736-62-2141

◯ 田辺市 廃棄物処理課
電話:0739-24-6218

◯ 有田市 生活環境課
電話:0737-83-1111(内237)
FAX:0737-82-1725
メール:seikatukankyo@city.arida.lg.jp

◯ 御坊市 環境衛生課
電話:0738-23-5506
FAX:0738-24-3255
メール:kankyou@city.gobo.lg.jp


私(J)は直ちに、皆さんに上記情報をお伝えすると共に以下のTweetをして置きました。

<各自治体の窓口 http://wakamamoru.blog.fc2.com/blog-entry-4.html 【緊急!】わかやまの瓦礫受け入れ反対のブログ (広瀬隆氏も指摘)知らないのは県民だけ『1990年3月「紀伊半島における深部地質構造調査」も実施され、すでに和歌山県は高レベル放射性廃棄物の最終処分場の有力候補地になっている』>

2011年10月16日日曜日

<一日一書>(百十五)Unhappyデジタル人生


『今日は木曜日。
天気は雨のち曇り。』

さて、今日の話を始めよう。

実は”Happyデジタル人生”というブログを大分以前に楽天のWeb上に作成、運営しているが、そう熱心とも言えず、最近は極く偶にしか書いていない。と言うのも、私がデジタルでHappyと言っているのは、特許明細書を初めとする技術文書の翻訳をMSワードや一太郎というワープロソフトを利用し、辞書はPersonal Dictionaryを主とするが、色々な参考書や辞書を時にWeb検索を交えながら作成し、出来上がった文書を依頼先に対しメール添付文書として納品し、そのフォローは、メール、FAX或いは郵便やクロネコ便などを利用して遂行する。
勿論、それらの文書の作成もPCを使用する、という一連の作業をデジタル技術の恩恵を蒙りながら、東京にある受注先から遠く離れた海沿いの恵まれた環境でやってのけることが可能となった事実を述べていたのであるが、この注文が大変に忙しく、余りブログには時間を割けなかった、というのが実情であった。

つまり、以前は東京で生活しながら自宅事務所で文書を仕上げ、電動タイプライターで清書した、紙に記録した文書を電車を乗り継いで依頼先の特許事務所まで納品に出掛けることで、こなしていたのに、今や作業場所は依頼先の集中する東京に限らず、好きなところに暮らしながらでも飯が食えるようになった。
それをして、Happyなデジタル人生と称していた。従って、それは今のPCを利用するネット上の販売などのサービスを意味している訳ではないし、その技は門外漢の私には無い。

そのまま優雅な「老後」ではなく、また「毎日が日曜日」でもない、年齢を気にすることなく、組織にも拘束されない自由な仕事を生涯現役で続けられる筈であったが、経済評論家の内橋克人氏の言うように、国家の約束は果たされず、いわゆる「幻の大地」の憂き目をみることとなった。

説明するまでもなく、世界的な不況、追い打ちを掛ける福島東電原発事故の発生によって、仕事の依頼は全く無くなってしまった。今年百歳を迎えた母の介護をしながら年金だけで生活することは出来ず、年齢からして今更就職もあり得ない。

そういう状況下の庶民に生きるためのどんな手立てがあるというのか?追い詰められながら再びHappyなデジタル人生を夢見ているが、色々トライしてみても遠くの灯りすら望めないのが、老書生の姿だ。

デジタル・テクノロジーを駆使して金儲けという話も蔓延しているが、事程左様に簡単な話ではない。全く途方に暮れる毎日である。

2011年9月16日金曜日

<一日一書>(九十七)「何故、真正面から向き合わないのか?」


『今日は木曜日。
天気は晴れ、午後から夜に掛け湿度高し。』
 
 さて、今日の話を始めよう。

非常に零細ながら、SOHOとして技術翻訳業を長年営為して来た手前、当然事務消耗品も必要なので、大量の購入ではないにしろ従来ASKULアスクル・インターネットショップというWeb通販で問題なく商品を調達して来た。

しかしながら、長引く不況で、小なりと言えども自営業者として経費節減に努めねばならず、最近は当方自体が開店休業状態で、売上げも大幅減で消耗品の使用、購入も手控えて来たため、具体的な数字は掴んでいないが、少なからぬ期間に亘りアスクルとは取引が無かった。

久しぶりに、コピー、印刷用紙も底を尽きそうになったので、注文しようと思い、従来何の問題も生じなかったID、PASSWORDでログインしようとしたところ、「只今お客様のご注文をお受けできない状態となっております」というメッセージが示され、ログインを拒否された。

このような場合、人はどういう印象を抱くだろうか?私は次のように感じた。『このID、PASSWORDに関し、何か不都合、不正使用などがあったため、ログイン出来ないように設定変更されたのであろう』と。

しかし、暫く経って、それなら当然、私に直接確認の問い合わせがあって然るべきであろう。その事実が無かった訳だから、他に想像できるのは、一定期間に亘り、注文が途絶えたため、そのような取引先を購買者名簿から外そうという、はっきりした意図に基づく処理結果なのであろう。

どういう販売戦略を採ろうが、それはその会社の自由であり、そのこと自体に何ら問題は無い。ただ、処理方法としては、非常に不親切である上、相手方に少なからず不愉快な思いをさせたことは間違いない。その辺のところが事業者ASKULに正しく理解出来ているのだろうか?甚だ疑問である。

今や日本のみならず、世界をも揺るがせている不祥事、東京電力福島原発事故における東電と国の対応で、指摘されている最大の問題点は、起こっている状況を正しく伝え、人々の理解を得ようとする努力を怠り、それどころか説明責任を果たさず、人々に疑心暗鬼を抱かせるような対応を取り続けている事故企業の体質と、それを適切に指導、監督できない(或いは意図的にしない)国の能力とその対応態度にある。

ASKULの件は、それ程、シリアスかつ致命的な問題とは違うだろう、という言い分もあるかも知れない。しかし、良く考えてみて欲しい。根は同質である。

それは、私のTwitter上からの問い合わせ「景気が悪く暫く購入しなかったが、消耗品が必要となり、以前問題なく使用できたID、PASSWORDでログインを試みたところ、「注文をお受けできない状態となっております」と拒否された。どういう意味か?別に不義理の覚えもないが。」に対するアスクルからの、次の回答で明瞭である。

「お問い合わせの件でございますが、お知らせいただきましたIDよりご登録状況をお調べいたしましたところ、大変恐縮でございますが、改めてアスクルの新規法人登録のお申し込みをいただく必要がございました。

お手数ではございますが、下記URLより新規法人様登録のお手続きをいただきますよう、お願い申し上げます。

<アスクル・インターネットショップ>」というものである。

はっきり言って、慇懃無礼な文言は羅列されているが、この返事は内容的に回答の体を成していない。つまり、私からの質問や推測に対しては、どうしてそうなったか?当社としてはこのような理由で、斯く斯く然々の処置を執りました。というような説明は一切為されず、言ってみれば、そこに何らの回答も無い訳で、ただ今後取引の意思があるなら「新たに登録手続きせよ」という伝達事項のみが示されているに過ぎない。

特にアスクルに対し、含むところがある訳ではない。しかし、私の考えでは、販売方針として一定期間取引の無かった場合は「HPを閉じることにします」という注意を事前に徹底するなり、一旦閉じる際は、その旨簡単に相手方に通知する、というような手段を採った方が相手の理解も得やすいし、更に相手の立場を考慮すれば、妙な疑心暗鬼を生じさせたりすることのない「親切」であり、相手方に対し、無断で一方的に処置して、その疑問の解明を求める問い合わせに対しても、実質的な回答を怠り、「(取引継続を望むなら)改めて新規登録の必要がある」というメッセージを一方的に伝達するのみでは、到底誠意ある対応とは言い難い。それは、回答ではなく、説明でもなく、問題の本質をはぐらかした上、その場から逃れようとする意思の表れ、という点で一連の福島原発事故と同質の問題を含んでいる、と結論されても致し方あるまい。


 この国の企業は規模の大小に関わりなく、延いては人々もまた、問題に真っ正面から立ち向かうという姿勢をいつしか喪失してしまった、というのだろうか?

2011年9月3日土曜日

<一日一書>(八十五)「亡国の民」


『今日は土曜日。
天気は雨、風ときに強し。』


さて、今日の話を始めよう。

昨日書いた<一日一書>(八十四)「100,000年後の安全」を「詩をきっかけとして考える会」のメンバーを中心として、私の友人達に発信する際の本文メッセージを準備してみようと思う。ドキュメンタリー上映の広報となる<一日一書>(八十四)の方は長文となったので、文書として本文メッセージ・メールに添付することにしよう。

高知県に台風12号が上陸したと、TVが報じておりました。台風の影響は広い範囲に及びますので、皆さまのお住まいの地でも何らかの影響はあると思いますが、如何でしょう、お伺い致します。私が住んでおります場所は和歌浦湾口に面しておりますが、ここは台風時には中型の貨物船が避難のため停泊するような所なので、防潮堤上から先刻満潮時に視認した際は雲か霧に覆われて明瞭に観察することは出来ませんでしたが、遙か沖合に二、三隻の船影を認めることが出来、また海浜に特別異常な様子も見られませんでした。

さて、添付文書を発信する私の今の心境を成る可く簡単に述べてみたい、と思います。

今年7月私は満78歳となりました。大東亜(太平洋)戦争に敗戦したとき、私は12歳、国民学校6年生で東京から疎開して当時の和歌山県西牟婁郡江住村の江住国民学校に通っておりました。
多分、その年の暮れ、もしくは年明け早々(昭和21年)に、母の強いすすめで東京の中学校を受験すべく和歌山県から単身で東京へ向かい、当時家のあった豊島区要町に辿り着くため、最寄りの省線(国鉄、現在のJR)池袋駅の西口に降り立ちました。
久しぶりの懐かしい池袋駅前の景色を目にしたとき、呆然と立ち尽くしたことを思い出します。記憶にあった建物は完全に焼失していました。目の前にあったのは、焼け焦げて、それも一部だけ残った真っ黒な柱や、全て真っ黒になった何かの枠とかそんな物だけが散在しているだけで、その他は賑やかな街の建物がすっかり無くなってしまった後の、妙にあっけらかんと拡がる住宅地に通ずる道の周りに現出した空間が見えるばかりでした。

虚脱感は周りにも満ち溢れていたようですが、それでも人々は動き回っていた、という印象があります。それから66年を経て今回大震災を経験しました。大災害であることを真摯に受け止めても、これだけなら敗戦時の状況と比較して論じることは可能だと思います。しかし、東京電力は福島原子力発電所で大事故を発生させました。この事態を加味すれば、現状は敗戦時とは比較にならぬ程深刻だ、と確信しております。私情を率直に述べれば、今や日本は絶望的な状況にあります。そして、このような私の発言を多少なりとも訝しく思われる方が少なく無いであろうと推察される現実こそ、私が絶望的だ、と申し上げる根拠なのです。

起こっていることの正確な事態を自らで把握すること、その事態を認識した上で、それに警鐘を鳴らす専門家の意見を白紙の状態で聴き、自ら考え、理解し、その為に自分はどう行動すべきか?を定めて具体的な一歩を踏み出すこと、今後の進展はそれに尽きる、と確信します。皆さん一人一人の運命は自分が握っていることをお忘れになりませんように。

余り繰り返しはしたくありませんが、今の日本政府、与野党関係なく多くの政治家や、企業家、特に原子力関係者(一部の科学者、専門家を除く)およびマスコミ(大手新聞、TV)は組織的に戦時中の大本営状態を現出させ、海外からの情報を遮断し、国民を欺瞞情報によって誘導することに努めるばかりです。

現状は敗戦時の状態を遙かに超える絶望的な有様であると断ずる所以です。

(これ以上、何も聞きたくないという方は、添付文書を参照する必要はありません。もし、そうでない方は是非ご参照下さい。)

<一日一書>(八十四)「100,000年後の安全」


『今日は金曜日。
天気は雨、台風12号の影響。』


さて、今日の話を始めよう。

台風接近で気圧が低下しているが、それだけで憂鬱な気分に落ち込んでいる訳ではない。東電原発事故関連の報道に関し、内外メディアの伝える情報内容の落差に愕然とせざるを得ないからだ。

私はある意味で鎖国主義者なのだが、こと原発関連情報、特にこの度の福島を初めとする原発事故関連情報に関しては、今の日本のような鎖国状態には断乎として反対する。ことは人間の健康や人命に関する問題である。海外の科学者やジャーナリストの意見を聴いていると、日本人の今置かれている状況は危機的状況と言っても決して過言ではない。

事故の発生した原子力発電所から半径何キロの範囲云々とか、そう言った類の話ではない。福島原子力発電所からどのくらい離れていようが、今や放射能の影響から逃れることは出来ない。国内産の農作物はどんなものであっても、いずれ放射性物質の影響が何らかの形で、全ての産物に及ぶことは間違いない。特に危険なのは魚介類であろう。こちらは回遊するものも多いだけに、産地が何処であるから、という判定は凡そナンセンスである。そして、かく申す私もこれらの食品を口にしなくては生きて行けないのが現実であり、これを読んで下さるあなたも同じで、日本から成る可く離れた海外に移住し、日本産の食品や回遊魚などの魚介類を長期間に亘って口にしないようにしない限り、逃れることは出来ぬ運命にある。

それどころか、日本から遠く離れた米国西海岸でも偏西風に乗って運ばれたプルトニウム粒子が平均5個/1日当たり飛散しており、この粒子は髪の毛の切断面より小さいので、人は否応なく体内に吸引してしまうと言う。4月のデータでは東京でもプルトニウム粒子が10個/1日飛散していた、という。この粒子は野菜、特に葉物などの表面に付着するので、野菜はよく水洗いすべきだ、とのことで、日本の放射能状態はチェルノブイルの倍くらいの劣悪状態にあると米国Chief Nuclear EngineerのArnie GundersenはCNNニュースの中で述べている。

プルトニウム239(半減期2万5千年程度)の漏出、飛散について、日本は政府を始め関連する東電や財界、原発推進、維持派の関係者は直(ひた)隠しにしようと懸命で、この関連情報は殆ど国内で観ることが出来ないのに対し、海外ではこれが大問題となっており、それに関する情報開示に消極的、秘密主義の日本政府や東京電力の対応に疑問と批判が湧き起こっている。

海外からの日本政府の国民に対する対応は犯罪的ですらあるというドイツTVの報道以外にも、私が観たものだけでも英国、オーストラリア、カナダ等からの日本人の置かれた悲劇的な状況を伝える報道には事欠かない。それに対し、国内向けの統制された情報だけを信じている人々を見聞きしていると、絶望的な気分となる。

だから、次のような案内をするのも、或る意味で無意味とも言えるのだが、それでもやって置こう。

来る9月9日(金)18時30分より(開場18時00分)和歌山市内プラザホープでドキュメンタリー「100,000年後の安全」が、県平和フォーラム(℡073-425-4180)主催で上映される(入場協力券500円)。

ドキュメンタリーの内容は次のように紹介されている。
「原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場が、フィンランドで世界初めて建設中。100年分の廃棄物を、無害化するとして10万年後まで地下500メートルで密閉管理する計画。施設内の映像や科学者へのインタビューを通じ、途方もない未来への安全と責任を問う」

確認出来た訳ではないが、この紹介文からして私は以前観たNHKの世界のドキュメンタリーと同じ内容だ、と判断している。もし、同じものなら、この関係の映像の中では、毎月有志と共に続けている「詩をきっかけとして考える会」の仲間に私が一番に推奨して、観て貰いたいとかねがね考えていた作品なのである。

この作品には、色々と考えるべき問題が提示されている。先ず、我々が既に手を染めてしまった原子力(核エネルギー)利用から出る廃棄物を無害化できるとしても10万年も掛かる、という専門家の見解。

考えても見て欲しい。我々人類がいわゆる歴史を文字で記録できるようになってから現在までの時間はたかだか数千年である。それでも個人にとっては気の遠くなるような時間である。有史以来の年月をもう一度繰り返したとしてやっと1万年。その10倍という無限に近い時間は、果たして人間の触れることが許される範囲だろうか?私はどちらかと言えば唯物論者だが、このスパンは、人間の関わる領域ではなく、神あるいは神でなくても畏敬すべき大自然の犯してはならぬ領域であると信ずるのだが…。

また、今を生きる人類の一員として、10万年にも及ぶ期間中に生まれて来て死んで行く、我々の子孫である人類に、このような人智に余る汚染物質を、目先の自分勝手なエネルギー欲しさという理由だけで、果たして押しつけることが許されるのだろうか、また、そんな権利どこにあるというのだろうか?

このドキュメンタリーを観たとき、この作品は色々な角度からの問題を我々に突きつけている、と感じた。それは科学的な考え方だけではなく、哲学的、倫理的、宗教的、歴史的、地理的、経済的、文化的などあらゆる立場から考えてみるべき問題を含んでいる。

私の仲間には是非観て貰いたいし、自らに関わる問題は自ら考えて判断したい、と思われる方には是非お勧めしたい。

2011年8月29日月曜日

「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内


8月例会出席者はK、M、TさんおよびJの4名。Yさんからは欠席理由のお手紙を頂いた。また、Sさんは急用。Nさんは、突発的な親戚のご不幸により欠席の旨、電話連絡があった。

例会内容は、次の通り。(1)今後の会の進め方について(後述)、(2)提示されたテーマおよびディスカッション。

(2)8月例会案内中に述べた「日本国家は15年(日中)戦争以来、機能不全に陥っており、それは福島原発事故が発生した現在まで続いて居る」という問題解決の一つのアイデアとして紹介した『”生きるための「新政府」を立ち上げたアーティストの、生活に密着した取り組み『原発事故を契機として迷走するばかりの中央政府を当てにせず「新政府」が避難民を受け入れ、福島県の子供達にサマースクールを用意。半年以内には格安の“団地”も実現させる』という事例および国家組織や、それを象徴する大本営の拙劣な対応の一例として『敗戦翌日に高知県香南市の海軍基地内にあった、ベニヤ板製の特攻艇「震洋」23隻が出所不明の出撃命令待機中に火災事故が発生、全艇が爆発炎上、111名の特攻隊員が犠牲になった』という事例について話し合った。

(1)本会の創立メンバーの一人であるH.Y.さんは、ご高齢のため暑さを避け、涼しくなる9月例会からの出席を切望されていたが、定期検査の結果、やゝ高いPSA値が出た由。医師の見解は年齢を考慮して、本人の自覚症状が出た段階で適切な対応処置を検討する、という結論であった。従来通りの行動に支障があるわけではないが、万一の突発的トラブルを恐れる、ご家族のたってのご意向で、外出は事実上不可能、悪しからず了承されたい、というご連絡を受けた。
本会の核心である「詩」について長年の経験と知識を有し、また参加メンバー中唯一の戦闘体験者として貴重な証言を身近に提供して頂ける方をメンバーから失うのは、大きな痛手である。誠に残念であるが、ご本人の健康やご家族のご意向となれば、如何ともし難く、そのご意志に従う他は無かろう。個人的には、お元気で居られる限り、色々とご教示頂く心算で、連絡を絶つことなく、御機嫌伺いし続ける方策も検討して行く。

以上のような状況から、会の存続、名称、今後の方向性も含め、会場(従来、海南駅前ヴァンサンカン)の場所も、Yさんの便宜を考慮して決められて来たところから、その変更についての必要性等々相談し、検討した。

元々本会設立の趣旨はその名称に示されるとおり、「詩」をコアに置き、そこから派生するあらゆる問題に目を向け、最終的に人間が求める理想的な「詩」に向かって進むことを目的としていた。ただ、此所で注意して欲しいのは「詩」を単なるポエムという限定された概念として捉えるのではなく、「詩」という一つの言葉で代表されるものより、更に広い概念、つまりアート(芸術)という意味で理解すべきことだ。
本会のあり方について考えるこの機会に、会の名称も、勘違いされないような名称に改めるのもベターなのかも知れない。参加メンバーからのご意見を頂きたいが、私案として取り敢えず提案したいのは「識り 考え 伝える会」である。

また、たとえ名称変更したとしても、会の性格および方向性はそのまま保ち続けたい。より具体的に述べると、8月例会において私が紹介した国際政治学者坂本義和氏の考え方である。朝日新聞オピニオン欄では、「知識人」についての定義であったが、私は「知識」についても、同じように考えて良いと考える。
すなわち、「知識」を成立させるためには「批判力と構想力の二つの軸を持て」と言うことである。つまり、一つは現状に対する批判力、もう一つは構想力。構想力とは、間違った現状を超える、まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力と言うことになる。そして、従来は大学人が総合雑誌や新聞の論文から学んだ論理的説得力が重んじられたが、今や歌や映像や漫画など感覚で訴えるものの比重が大きくなった。かって、大学人が果たした役割を作家や芸術家が果たすことが多くなった。こうした広がり自体はむしろ歓迎すべき傾向だ。

「批判力」と「構想力」は市民レベルで議論しながら急速に積み上がっているのではないか、と坂本氏は考え、更に「市民の小さなグループがあちこちに出来て、地方にも広がり、それなりの成果を上げている。他方、国家を超えて、世界中の人達とインターネットを通じて直接意思を通じ合い、同じ人間として、どういう社会を作るのか議論をしている。新しいタイプの市民的な知識人が生まれている」と述べている。

本会の方向性は将に此所にある。「現状に対する批判力」は必要であり、重要であるが、これに偏ってはならない。むしろ、我々が目指すべきは構想力「間違った現状を超える、まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力」にある。

幾つかの具体例を挙げれば、日本国憲法第九条は世界に誇るべき、素晴らしい構想力の産物であるし、あらゆる核エネルギーの利用(核兵器は言うまでもないし、平和利用と称する原発も当然)とは断乎訣別すべきだ、というのは構想力に基づく当然の帰結と言えよう。
単なる現状批判は政治家や官僚に任せて置けばよい。前述の「新政府」を樹立したアーティスト坂口君の表現を借りれば、「アートはぎりぎりの本気」だから、本会では単に過去や現状を論じ、批判することだけにウェイトを置くのではなく、未来の人類が目指すべき理念を構想力をもってぎりぎりのレベルまで思考することを、本来目的とすべきであると信ずるので、今後は更に、このレールから外れないように意識して会を進める方針を改めて、ここに確認して置きたい。

9月例会においては、次のような慄然とせざるを得ない日本の現状に目を向けたい。

(1) 【日本は終わった】 英インディペンデント紙(The Independent) http://www.independent.co.uk/news/world/asia/the-explosive-truth-behind-fukushimas-meltdown-2338819.html

8月17日の英インディペンデント紙は、福島原発事故を取り上げ「原発事故は日本政府が嘘をつく構造 」「近代日本の終焉」「チェルノブイリより遥かに酷い」と論評した。

(2)雑誌ニューヨーカー(The Newyorker) http://www.newyorker.com/reporting/2011/03/28/110328fa_fact_osnos によれば、我が国では日本政府(国会を含む)、官僚機構および経済的利益集団(たとえば、電力会社)のみならず、テレビ、新聞などの報道機関まで三位一体ならぬ四位一体化された「Nuclear Mafia=核マフィア」国家が構成され、それによって日本は運営されている、異常な国家というレッテルが貼られ、日本という国は先進国家から脱落する、と断じられている。

多くの日本国民は、このような外国メディアによる報道の存在すら気付いていないであろう。フリージャーナリスト上杉 隆氏に依れば、今や日本のジャーナリズムは、大手メディアのみで構成される記者クラブの護送船団方式に埋没し、ジャーナリズム本来の使命を果たそうというジャーナリストが存在しないばかりか、ジャーナリズムの王道を貫こうと孤軍奮闘するフリージャーナリストの足を引っ張り、その活動を妨害したりする、救い難い状況にあると言う。

約70年前に日本を荒廃に導いた大本営発表の嘘で固められた情報を利用して、日本国民300数十万人を殺し、日本の国土を破壊し尽くした愚かな国家指導者たち(=機能不全の国家)と共にジャーナリズムの使命を放棄した報道陣の、当時の姿を髣髴させるものである。

筆者は<一日一書>(七十二)「大日本帝国 大本営」中で、日本人は70年前の惨憺たる歴史から何も学んで来なかったことを指摘したが、上杉氏は今後の日本について、こう述べている。「この儘では、日本は終わりで、70年後に再び失われた歳月の大損失を思い知らされ、何も変革して来なかったことに思い至るであろう」と。

以上に関連する資料はYouTubeやUstreamの映像も含め豊富に存在するので、出来る範囲で紹介したい。

例会場所、日時は下記の通り。

       場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
        日時:9月12日(月)午後1時30分より
TEL: 073-482-1899

更に友人よりの下掲資料を添付して置く。この他にも京都大学助教授小出裕章氏(参議院行政監視委員会) http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65737210.html や講演会 『原爆・原発と憲法9条』 DVD版 http://www.ustream.tv/recorded/16262497 のように良心ある学者は、勇気を持って発言して居る。我々は明晰にその情報を取捨し、考え、行動する必要があると信じる。
添付資料: 東京大学児玉龍彦教授、怒りの発言(厚生労働委員会での発言要旨) http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65754131.html

2011年8月19日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」8月例会案内


 立秋も疾うに過ぎておりますが、未だに日本全国暑い日が続いて居ります。お健やかにお過ごしでしょうか?お伺い申し上げます。唯、最近明け方の気温には微妙な変化の兆しも現れているように感じます。

 ところで「詩をきっかけとして考える会」8月例会日程も下記ご案内の通り迫って参りましたので、急ぎ連絡申し上げます。

 七月例会の出席者はK、N、S、TさんおよびJの5名。

 ディスカッションの内容は、沖縄在住の作家大城立裕氏のインタビュー「いま沖縄から考える」7月7日朝日新聞朝刊オピニオン欄中の発言『日本では原発は過疎地に集中させられてきました。事故の危険性を押しつけられたうえ、そこで生み出された電力は地元ではなく、東京や大阪など大都市で使われる。これは、米軍基地が沖縄に集中させられているのと同じ構造です。沖縄に基地の負担を一方的に押しつけ、日米安保の

恩恵は本土が享受する。(後略)』であり、これを中心テーマとして行った。

 私見としては最後の部分の「日米安保に、今現在果たして、どれほどの恩恵があるのか、日本が負っている負担の大きさから考えて、可成り疑問ではあるが、今や現状は、冷静にその利害得失を検討し、次の行動に進むべき時期に入っているものと考えられる。その他の発言内容は私の考えていた問題点と一致している。すなわち、日米安保のもたらす沖縄問題は、今回の福島原発事故と明瞭に連繋している。

 私はかねがね「国家」とは何か?何のために存在するのか?また、我が国では「国家」が期待される機能を果たし得ているのか?と考え続けて来た。明確な答えは依然として得られていないが、8月15日の敗戦記念日の前後には、今でも見落とされたり、知らされていなかった記録や事実が報告される。それらを踏まえて考えた結果、私なりの独断であるが、日本が国家(組織)としてどうにかその役割を果たし得たのは、明治維新政府が欧米列強が支配する世界に踏み出し、その不平等を試行錯誤しながら修正し続けた日清、日露戦争頃までではなかったか?と考えている。私が物心つき始める頃の日支事変(日中戦争)以降現在に至るまで、日本の国家は真面な組織としての機能を果たし来なかった。それには色々な原因があっただろう。たとえば、組織に関わった人々の能力欠如、組織固有の欠陥、組織を悪用する輩を放置した等々によって、現在のような機能不全に陥った。

 では、我々はこの国に生活する市民として、どうすべきか?を八月例会のテーマとしたい。
 参考となりそうな記事が朝日新聞朝刊8月16日の見出し”生きるための「新政府」”中にある。『原発事故を契機にした迷走が収まらぬ中央政府に愛想を尽かし、九州「西南」で「新政府」を立ち上げたアーティストがいる。避難民を受け入れ、福島県の子供達にサマースクールを用意。半年以内には格安の“団地”も実現させると、意気軒高だ。』

 ここに至る前段として、菅直人首相に対する批判に対し、「異議あり」と8月12日朝日新聞朝刊オピニオン欄中で意見を述べている学者国分功一郎氏の発言をみることにしよう。「場当たり的、思いつきだけの菅さんが何か制度を提唱したという記憶がありません」という悪意に満ちた記者の質問に対し、国分氏は「そうでしょうか。就任当初『最小不幸社会』を実現すると言ってました。これは社会に付きまとう不幸、貧困や病苦などをうまくみんなで分け合う制度を整えようという考えです。辞任3条件の一つに掲げた再生エネルギー特別措置法案も、自然エネルギーの普及という目標を掲げた上で、実現を促す制度を導入しようという考えです」

 更に国分氏は「日本は民主主義の社会だということになっています。しかし実際には、たまに部分的に立法権に関わることができるだけ、つまり数年に一度、選挙への参加が許されているだけです。これのどこが民主主義なのか」、また「(前略)立法権ばかりが注目されたためにないがしろにされてきた領域がある。私たちが生活している中で最も身近な行政権力です。市が保育園を作る。県が道路を造る。私たちの生活に直結しています」「しかし行政権の執行に対し、私たちはまったく参加の機会がありません。何ら拘束力をもたないパブリックコメントをたまに出せる程度です。民主主義と言うなら、行政権に市民が公式に関われる制度をきちんとつくっていくべきでないでしょうか」
 
 「(前略)これからは再生可能エネルギーの普及が必要だと一人一人が思っていても、その気持ちを束ねて結果を出すには膨大な労力が必要です。しかし、そうした気持ちをうまく後押しする制度が作られれば、社会全体で結果を出していける」

 総選挙があったとしても、どの政党所属の議員にも投票するに足る人物は不在、という有権者が大半を占める現状は将に国家という組織の機能不全を有権者が明確に認め始めている証拠であろう。

 私は前述の、国レベルではない、生活に直結した行政への、実質的な市民参加こそ民主的に市民の声を反映させる有効な手段である、と考える。

 国家という、機能不全で、或る意味ではいかがわしい組織を温存し続けるならば、市民の生活に直結しない視点から、たとえば大局的見地と称し、一部に犠牲を押しつけたまま、利益に見えるサイドにだけ脚光を浴びせて、誤魔化し、密かに権力や利権の甘い汁を吸おうと群がる輩を排除することなど到底期待できない。

 中東や中国(やゝ違った形ではあるが)で、Twitter革命が進行している。日本ではTwitterにより、それらの国のように爆発的な変化が生ずる、という安易な見方は直ちには出来ないであろう。しかし、情報源を国内のテレビや新聞だけに求めるのではない、これまでと異なったうねりが密かに、しかし根強く胎動し始めて居るのを覚える。

 別な話題として、本例会にも時々顔を見せるY.A.さんが論潮通信第4号に寄稿された「潮風の記憶」を紹介したい、と考えコピーを持参する。印象深い内容で、「言葉」についての真剣な思いが綴られている。


例会場所、日時は下記の通り。

       場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
        日時:8月23日(火)午後1時30分より

               「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

2011年8月15日月曜日

<一日一書>(65)「人(民族)と国家」


『今日は日曜日。
天気は晴れ、午後になって風吹く。』


さて、今日の話を始めよう。

『盆を過ぎると、クラゲが出始める』という言い伝えは、例年の経験からして、先ず当たっている。大分前のことだが、クラゲに顔面を激しくやられて酷い目にあったことがある。腫れて熱を持った水ぶくれも長男の結婚披露宴までには、どうやら落ち着くか、と思えたが、実際には癒えた傷痕に現れた、太い瘡蓋の痕が、恰も出入りで負傷したヤクザの顔のように残って、誠に往生したことがある。

それで、今日が最後になるか?とも思って、夕方には結構風が出て来たが、海に入り、いつものようにテトラポッドの直前までを往復して帰って来た。

今夜は二つのドキュメンタリーを観た。私は学者ではないので、文献を挙げて綿密に論ずることは出来ないが、今まで見聞し、経験した資料や情報に基づいて自分なりに、直感的に考えて来ている。

ドキュメンタリーの一は「圓の戦争」、そして二は「砂漠の中の日本庭園」である。これら二作品からの印象は、私が常々考え続けていることを裏付けてくれた。

これまで、ずっと、私には「国家」というものは、何処かいかがわしいもの、というイメージしかない。前者のドキュメンタリーは将にそれを示している。軍部が中国で戦争を継続し続けるために、大手銀行を巻き込んで、他人(他国)の褌で相撲を取った、という一般庶民には知らされなかった狡猾で、無責任な行動。つまり、戦争に必要な軍費を戦地で調達し続けるという暴挙。その国の経済が破綻しようが、一向に顧みることなく突き進み、挙句の果てには膨大な借金を自国(つまり、日本の一般市民)に破廉恥にも未だに残し、勝手に破滅したという事実。

個人や民間の思惑では、実現出来ないことを、国家という枠組み(組織)を作り、一握りの権力者がそれを利用(悪用)して、破廉恥で無謀な行動に突っ走る。そのような場合に、国家は、本来実現し得ない、あるいは実現させてはならない役割を果たすためだけに存在する組織(悪)、としか考えられないし、その組織を悪用する者にとって更に好都合であるのは、失敗の原因を実際の関係者にではなく、組織の故とする隠れ蓑として利用することさえ出来ることだ。

後者の記録は、戦時中、自由を標榜する米国で、日系人という事実だけで砂漠の中の強制収容所に隔離された人達(個人)の抵抗と矜恃の真実である。これを観て、人を支えるのは、決して国家などではない、と改めて確信させられた。財産も自由も理不尽に、一方的奪われた日系人たちが、その密かな抵抗の気持ちと、共通の連帯感を持って不幸に立ち向かう誇りの基(もとい)となったものは何か?それは「文化」である。日系人たちは砂漠の中の殺伐とした収容所の中に、日本文化の心を伝える日本庭園を建設した、という。

これは、国家とは無関係である。民族、日本民族としての誇り、民族が共通に所有して来た文化の発現を試み、それを実現させたことによって、自信、誇り、そして安らぎを得ることが出来た、ということだ。

私は日本の国家は今でも信用出来ない、と略確信しているが、一方で、自分が日本人であることには誇りを持っている。それは、世界中に誇ることの出来る日本文化の高い価値の故である。これらを創出し、築き上げ、伝承してきた日本民族の優れた資質には胸を張って良いし、その末席を汚す一員であろうとも、日本民族の一人であることが、私の生き甲斐の根底にある。

2011年8月11日木曜日

<一日一書>(62)「40度 乃至 数千度」



『今日は木曜日。
天気は晴れ、暑さ衰える気配見せず。』


さて、今日の話を始めよう。

日本各地で30度を超える暑さが話題となり、毎日何人かの人々が熱中症で死亡、と報道されている。家でもガラス戸は毎日開け放したまま、殆ど裸同然で就寝しているが、明け方の冷え込みさえ、ここ数日は感じたことがない。明け方から既にむっとした暑気に満たされている。

この時期の、この暑さを体験する度に私の記憶は敗色濃厚だった1945年の記憶と連動する。8月15日の敗戦の日も、疎開先の紀南の空は青く晴れ渡り、暑い一日であった。広島と長崎に新型爆弾が投下され、一般市民まで被害を受けたことは、制約された報道によって承知していたが、その実態については全く識らなかった。意識的に隠蔽されていたわけだから一般人は知りようもなかった。

それ故、今、TV報道で40度近い気温で大騒ぎしている人々をみていると、66年前、何の落ち度もないのに、無防備なまま、不意に数千度の熱で焼かれる破目となった日本人の、熱さや苦痛、恐怖は如何許りだったろうか?と想像すると、今でも、その非人道的な所行に対し怒りを抑えることが出来ない。

誰が如何なる理屈を付けようが、人間が他者に対して採ることを許容される手段でないことは、論を俟つまでもなく、明々白々の真実である。

原子爆弾の効果、人体に及ぼす悪影響についてのデータや情報をひたすら隠蔽してきた米国の指導者層や、そこから利益を得て来た軍部や産業界の身勝手さから、一般市民が正確な情報を入手できなかったことが最大の不幸であり、また問題である。

原子核分裂や核融合反応からのエネルギーを利用しようとする試み自体が、人間の制御可能範囲を超える所行である、という冷静かつ正確な判断と理解があれば、武器としての利用は無論であるが、たとえ平和利用と称するオブラートを被せようが、その利用は許されないことが、はっきりしている。

『被爆者を絶対に作らない』というシンプルで、嘘のない原点から、全ては出発すべきである。電力が不足しそうなら、余分な使用は停止する、必要なものは出来るだけ節約して、やりくりする。足りない分は工夫し、努力して別なソースを検討し、実践する。「費用がかさむの、かさまないのと議論する暇があるなら、先ずスタートして一からコストダウンの努力を徹底すべきだ」そもそも、この種の技は日本人の最も得意とするところではないか?先頭を走れば、この面で、世界のリーダーたり得る筈だ。

愚かで、想像力乏しく、現状を見通す眼力の無い人々(日本人ですら、この中に含まれるのは哀しい)が、未だに核兵器による「抑止力」などという鰯の頭ほどの迷妄から抜け出せないで居るのを視るのは、誠に情けない限りだ!これらの人々の脳みそがどのように構築されているのか?解剖学的に観察可能なら視てみたいものだ。

そもそも人類にとって危険で、実質的に使用できないものを保持して、どうしようというのだ?製造するにも無駄で高額な費用が掛かる上、安全(完全な安全はあり得ないこともはっきりしているが)に維持保管するために更に無用な費用を要し、その上、使用せずに老朽化しても、取出した核物質を安全に廃棄する方法や場所さえ、無いこともはっきりしている。

仮に、理性の欠如した国が核兵器を使用して他国を侵略した、としよう。戦勝したとしても、その国は、残留放射能に満ち溢れた敗戦国を駐留統治することは無論、放射能まみれの財物や生産物を収奪、利用することさえ出来ないのは、既に明白である。もし、近隣の国を侵略した場合は、自国に放射能が滞留する危険性も十分にあり得る。それに対し、良識を留める国々はこぞって当該国を非難するであろう。また、十分な効果について不確定要素が存在しようが、しまいが、一致して経済制裁が発動される可能性も高い筈だ。結果の明らかな、このような事態の何処に有用な効果やメリットがあるというのだ?

核抑止論者は、こんな単純なシナリオさえ、想像できないのだろうか?愚かにも越権行為で職を喪った自衛官や、ろくな対抗馬が居ない故で居座り続ける老耄知事の妄言に惑わされている日本人が未だに存在することは、筆者の理解を超える。

40度どころではない、数千度の人工の火に焼き殺された数十万の人々の死を犬死にとして放置したままにしようというのか!人間として許し難い無理解と無知という以外に言葉が見つからない。

2011年8月5日金曜日

<一日一書>(56)「軍神 山本五十六元帥」



『今日は金曜日。
天気は曇りのち雨。』


さて、今日の話を始めよう。

大型の台風が沖縄方面に近付いているという。その影響で今日は朝から曇っているので、陽射しが強すぎず、散歩には都合がよい。
遙か沖合の和歌浦湾内には、避難のため、大型の貨物船が数多く停泊している。

本書のシリアルNo.を入れてみて、直ぐに気付いた。多分、私の年代前後の人々なら同感して貰えるだろうが、56という漢字表記をした途端に山本五十六(やまもと・いそろく)元帥を想起した。ハワイ真珠湾攻撃を成功させ、最後は前線視察中、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で、情報を傍受されて、米軍機に撃墜され、戦死した日本海軍提督だ。

当時、私は国民学校(今の小学校)四年生、大東亜戦争(太平洋戦争)開始から一年半くらい経過したころで、戦争推移の実態は、国民が大本営発表により聞かされていた内容とは異なり、ハーバード大にも留学した山本五十六が予言したとおり、ネガティブに転じ始めて居た。
連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死は日本国民に大きな衝撃を与え、その後の、坂道を転がり落ちる日本を、将に象徴する事態であった。

昭和十八年六月五日の日比谷公園での国葬に合わせ、私が通っていた東京市豊島区立長崎第二国民学校でも、山本五十六元帥の追悼式が執り行われ、選ばれて、私が書いた追悼作文を全校生徒数百名の前で朗読した。何を書いたか、定かではない。が、当然、国や学校関係者が求めるような内容、『軍神となって国を護る山本五十六元帥の後に続き、一億一丸となり、我々少国民も共に大東亜共栄圏の繁栄のため、鬼畜米英と決死の覚悟で戦いましょう!』

多分、そんな内容だったに違いない。それ以外のことを書いても発表の機会などある筈がない、訳だから。

そう言った時代を識らずに育った方々が大勢を占めるようになった現在、上記のような話を聞いて、どう思われるのだろう?

歴史に"If"は禁物だと言われるが、あの時、もっとこうして置けば、戦争にも勝てたかも知れないだの、また、今頃になっても、作る能力も経済力もあるのだから、核兵器を持てばよい等々の寝言を未だに口にするピント外れ、時代遅れの日本人が存在するということが、私には到底理解出来ない。

戦争は、力が強いだけで無知な国の、単なる人殺しである。殺されるのは、いつでも善良で、罪のない庶民たち、最も被害を受けるのは、何時の世でも幼く、無力な子供たち、女、老人たちである。尤も、その前に青年たちも無残に抹殺され、やがて壮年の男たちもそれに続くことになるわけだが…。

武器を持って戦線で体験したことはないが、いわゆる銃後で、平時なら受けるいわれのない犠牲を強いられたという意味では、戦争を体験した一人として言わせて貰おう。

「戦争で得るものなど何も無い。戦争は人間を抹殺するだけだ!」

「誰が何と言おうが、如何なる戦争にも絶対反対だ!どんな戦争であっても、結果的に人殺しをすることは間違いない」

「だから、あなたが本当に、人間として生きようとするなら、(他人を殺さず、他人からも殺されないように)あらゆる戦争を、この世界から排除すべきだ!それしか道は無い」


 そして明日は広島「原爆の日」だ。

核兵器は言うまでもないが、たとえ原子力発電であっても、人智で制御不能な自然の摂理に、ヒトは手を染めてはならない。謙虚であるべきだ、ヒトも単に自然の一部に過ぎないのだから。

2011年7月13日水曜日

<一日一書>(33)「脱皮を全う出来なかった 蝉」


『今日は水曜日。
天気は昨日と打って変わって快晴、日射しは強いが、海岸縁は風が吹き抜け、どちらかと言えば心地よい。』


さて、今日の話を始めよう。

海に出るには具合のよい状態となって来た。しかし、朝の散歩の、この時間帯では、まだ海水浴場に人影はまばらで、ビーチパラソルもパラパラと点在するのみ。
沖には先日の4本マストのスクーナーが優美な姿を晒して停泊している。

今日、我が家には新記録を達成した人間が居る。それは満100歳の誕生日を迎えた、筆者の母、明治44年(1911年)生まれである。今の日本では100歳を迎えることが、そう珍しいわけでも無かろう。しかし、78年間一緒に暮らした(戦時中の一時期は学童疎開で母と離れて暮らした、また結婚後の数年間の別居期間もあるが)人間にとっても間近で観るのは初めての経験だ。

耳は殆ど正常に聞こえないし、居眠りの頻度も増え、話の理解力も格段に落ちたし、何よりも相手の話を聴くよりも、自分の伝えたいことだけを大声で発する。
それに惑わされず、如何にマイペースで取り仕切るかが、長男である筆者の、専らの務めとなっている。

話変わって、散歩の際、堤防へ出る階段の登り口右手にクマゼミが集まって大合唱をする木が植わっている。当然のことながら、その木の下の地中には、クマゼミの幼虫が多く住んでおり、この時期の夕刻から夜間、地中から木をよじ登ってきて脱皮する。そして、晴れた日の朝、略決まった時間帯に多数が群れて大合唱となるのだ。筆者が注目するのは、脱皮した蝉の脱け殻だ。今朝、今年初めての抜け殻2個を発見し、その一つを散歩の帰りに木の葉ごと折り取って、持ち帰り、それが机上にある。

いつものように、散歩の往路はなるべく海岸側を海の状態や、遠くの山脈を観察しながら歩き、コンクリート整地の端に到達したら、公園側に入り「万葉の小径」と名付けられた散歩道を、シンボルの丹頂の像をあしらった行き止まりまで進み、そこを廻ってから、林の中の復路を取ることにしている。復路の傍らには様々な植物が植えられているので、動物より苦手の植物をなるべく観察するようにして、遅まきながら学んでいる。

ところが、どうしても興味のある生き物の方に直ぐ目が行き、今日は珍しいものを観た。太いマツの幹に、ちょっと見慣れぬクマゼミの抜け殻を目にしたので、思わず手に取ってみた。抜け殻と見えたものに小さな蟻が少なからず取り付いている。その抜け殻とおぼしきものをよく観ると、背中に抜け出した筈の縦の割れ目が見当たらず、頭から背の部分に普通より盛り上がった薄水色部分と黒い二つの眼が見える。つまり、こういう事だ。このクマゼミは何らかの理由で、脱皮を終えることなく生命が尽きたのだ。昨日のように温度が下がり、雨の降る日とは夢にも思わず、地中から未だ観ぬ世界に胸をときめかせながら這い出して来たタイミングが最悪で、過酷な天候に耐えきれず力尽きたのか、それともヒトによる身勝手な環境破壊の影響で、突然変異か何かの異常を生じ、不自然に強固な蛹の外殻を持って生まれる運命に遭遇したのか、あるいはまた自然の摂理により、天敵にでも遭遇して完璧な成虫となる前に、息の根を止められたのかも知れない。到底、筆者に正確な判断は出来ない。

如何なる生き物も自然の摂理に反して生き延びることは出来よう筈も無いのだが、無節操にもそのことを自覚せずに、乱しているのがヒトという、地球上最悪の悪魔とも呼ぶべき生き物だ。二酸化炭素の抑制無き排出を初めとする環境破壊や、原発、核爆弾、それらのコントロールの失敗や、不見識、無責任なそれらの実験による放射性物質のばら撒きが、どれ程、他の罪のない生き物に不自然で、過酷な運命を押しつける結果となっていることか。

この不遜な癖に不感症の生物は、自らに、その撒いた種によるしっぺ返し受けてみて、初めて己の破廉恥な行動を認識する程度の能力しか有して居ないのだ。悲しいだけではない。恥を知れ!と叫びたい。

2011年7月6日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」お知らせ第110706号



 6月例会出席者はK、N、TさんとJの4名。

 Yaさんから出席(但し、早退)の旨、予めお手紙を頂いていたが、会前日に電話有り、「この暑さで、矢張り、体調もうひとつ。静養のため欠席」のご連絡を頂いた。無理をされることなく、涼しくなる秋まで体調回復に努めて頂きたい、と考える。

 Sさんは出席予定であったが、当日、家を出る直前に気分が悪くなり、大事を取り欠席の旨、Tさんに連絡有り。

 今回は小規模に3人だけで気楽に行くか、という気分で会場に到着すると、Nさんが久し振りに顔を見せられた。急用で田辺へ向かう要件が出来、その前に立ち寄り、参加された由。

 メンバーのYsさんからメールが届いているので、そのまま紹介する。
『J様
 
大変ご無沙汰しております。
 
いつも会のご案内をいただいておりましたが
予定が重なり長らく欠席とさせていただきました。
 
時間が合う時は参加をさせていただきたいと
思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
今度9月に「いのちのイベント」が決定いたしました。
それに向けて「いのちのメッセージ」を募集しております。
もしよろしければ、Jさんはじめお仲間の皆さんでぜひ募集いただければと思います。
 
詳細を添付にて送付させていただきます。
 
どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
Ysもとひろ』

 この「いのちのイベント」についてのPDF書類2種類を「このお知らせ」に添付するので、奮って参加、ご協力されたし。

 
 さて、6月例会では、(1)中上健次原作の映画「軽蔑」について雑談、(2)映像BS世界のドキュメンタリー「被爆の森は今」を視聴した。ドキュメンタリーには、チェルノブイリ原発事故から25年経過した今、半径30キロ以内は未だに立ち入り禁止区域となっており、一般人の立ち入りは認められていないこと。ただ、例外として科学者には、絶好の放射能汚染実験場として利用されていること。今、この区域内に存在する生物は、一体どうなっているか?等がレポートされている。

 放射能の影響、と一口で言っても、その実態は多様であること。放射能による障害自体が植物や動物の種類によっても異なること。悪影響は生物の何世代にも亘る現象であることから、ネズミのように世代交代の早いものでは或る程度の結果が出るが、人間のように寿命の長い動物の場合、四分の一世紀程度の短い時間では、結論も見通しも立たないことから、急激かつ大量の被爆で直ちに死に至るケース以外は見た目だけで、影響の有無を論じることは殆ど意味のないことが解る。放射性物質の種類によっては数千年あるいは十万年単位で放射線量が半減するという事実を理解すれば、今の人類が一応の文明を持つに至ってから現在まで、長く見積もってもたかだか五千年程度であるから、「放射能」そのものの影響など、今、地球上で生存している人類の一生には略無関係な話、という言い方さえ出来るのである。

 今、被爆したチェルノブイリの森は”一見”動物たちの楽園となっているという。今まで生息していなかった大型の熊までもが、住み着き、外見的には問題なく、元気に活動している、という。
 これをもって「それみろ、放射能の被害を声高に述べる輩が多いが、動物たちが”放射線の無害”を如実に示して居るではないか」というような軽薄無知な、早とちりは間違ってもしてはならない。
 動物たちに(たとえ、一見したところであっても)楽園を齎したのは、その場所に人間が居なくなったことに起因する結果である。チェルノブイリ事故が発生した時、ここはソ連領であったので、国は30キロ圏内の全住民を直ちに強制移住させ、空き家となった住居は、住民が戻ることが出来ないように、完全に破壊したのである。その結果、人間の徹底的した不在が生態系に大きな影響を及ぼし、一見したところ動物たちが闊歩する楽園が生まれたのである。しかしながら、これで動物たちには放射能の影響が無いとは、決して言えないことは、ここで研究を続ける科学者達の証言によっても明かである。外見と異なり、動物たちの体内では遺伝子の異常が発生しているという。元来生物の体内には異常を修復する機能が備えられているが、それを超える異常が発生しており、その結果突然変異や生まれつきの障害(奇形など)を持った子孫が現出したりしているのが事実であるが、これを更に複雑にしているのは放射能障害やそれに対する耐性は動物の種類によって大きく異なるという事実に依るのである。

 何処かの国のように、「いつになったら家に帰れるのか?」というような果敢(はか)無い期待に基づく、科学的根拠にも乏しい、誤った解釈を意識的に放置する、欺瞞に満ちた、御用学者や政治家達の発言や行動は、徒に住民達を混乱させ、結果的に彼等を絶望の淵に押しやることになる。ソ連の採った、徹底的な強制移住と住宅撤去の方が、(やり方に配慮は必要だとしても)科学的には、処理方法として、むしろ当を得た処置と言える。

 放射性物質の放射線量が半分になる(決して消滅するわけではない)のが、数日間から数百万年までと多様であるにせよ、現在「放射線量」を人為的な処理によってゼロにする(消滅させる)方法は皆無である、という単純な事実の理解から、全ての考えをスタートさせなければ、議論も対策もまともに進むことはあり得ない。

 今、日本の各地で行われていることは「臭いものに蓋をする」だけである。蓋をしようが、目の届かないところに移そうが、「臭いもの」自体が消滅することはなく、「臭いもの」が発する放射線量が、物質によって数日から百万年単位で半分に減少する、というだけのことである。
 除染しようが、濾過しようが、取り除かれた放射性物質はそのまま、或る場所から別な場所へ移るだけである。棄てた場所(新たに保管した場所)には同じ放射線量を発する「臭いもの」がそのまま存在することになる。要するに、気の遠くなるような時間が自然に一定時間経過することによって、やっとゼロではなく、半分の量に減りますよ、というだけことである。有機性の腐敗物質を燃焼させれば、酸化されて、別な物質に変化し、生物や人体に悪影響を及ぼす物質が結果的に無くなりますよ、ということとは本質的かつ全く異なる状態であることを、先ずはっきり認識するところから、初めて思考や議論のスタート地点に立つことが可能となる。

 それと共に、深刻なのは、筆者が、今こうしてこれを記し、それをあなたが読んで下さっている今、この瞬間にも依然として福島原発からは絶えず放射性物質が放出され続け、地中にも、海中にも放射性物質を垂れ流している結果、放射線量は時々刻々増え続けており、風が吹いたり、気流が激しく流れたり、雨が降れば福島県や東北地方のみならず、関東一円や中部地方はおろか、いずれ近畿地方にも、北海道にも九州にも日本列島全体に放射性物質が拡がり、蓄積するのは、このままの状態が続けば、どうしても避けられないであろう。その程度に、留まればまだ幸いとも言える。と言うのは、今のように海中に垂れ流し、空中に放出し続けている放射性物質は遅かれ早かれあらゆる海産物や陸産の食糧にも影響を及ぼし、また、地球上に蓄積する放射線量を確実に増加させることは何人(なんびと)たりとも否定出来ない。

 これは単に一国家の問題では済まされない。人類の、いや地球上の生物全体に影響を及ぼす問題であることを、目を背けずに冷静に見極めなければ、議論や考えを進めることは不可能である。
 
 従って、7月例会のテーマも「原子力発電」関連となっているが、この点筆者の見解は「総論賛成、各論反対」の如き議論は、この会では時間の浪費に思える。その種の議論は全く必要ない、とは言わぬが、我々はもっと首尾一貫した立場にあって、原子核分裂や原子核融合の現象をエネルギー利用の対象にしよう、という考え方自体が地球上の生き物の一種であるヒトに、果たして許容されるべき行為であるのか?という観点から考え、議論すべきである。私見では、原発反対、一切の核兵器の非所有、使用禁止、廃絶は単純明快に一つの結論に収斂する、と信じる。より具体的には、憲法九条の堅持、沖縄問題の解決、今後の(骨抜き非核三原則の)日米安保条約の取り扱いも、この流れに沿って矛盾のない結論が導出される筈だし、そうあるべきだ。

例会場所、日時は下記の通り。

       場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
        日時: 7月11日(月)午後1時30分より

               「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

<余談>6月例会後、海南市にて二次会会場を物色中、メンバーMさんに遭遇、一緒に居られた郷土史家S.H.氏を紹介された。二次会にて同席、聞かせて頂いた紀州徳川藩の教育指針となった李梅渓の「父母状」。これに関する資料を研究され、著書「波臣の涙」の出版に大いなる関わりを持たれたH氏の話から、和歌山市海善寺にある李真栄、李梅渓親子の墓参りに訪れることになっていた、韓国在住の李氏一族、H.L.氏一行の取材を行うことが出来た。その報告、経緯はいずれ日を改めて行いたいが、本例会にもH氏をお招きして色々お話しを伺う機会を是非設けたい。(文責: H.J.)

P.S.<県外の方々から7月5日夕方の当地方地震について、お見舞いを頂いた。有難うございました、こうして無事でおります。体感的には、手応えのある揺れではあったが、不安定な本棚から新書版が1冊落下した程度の被害。大津波が襲来した場合は避難しない覚悟をしているので、特に情報の収集はしなかったが、(防災無線による津波に対する警告は全く無かったので)いつも通り涼しい海岸縁を散歩した。>

2011年6月19日日曜日

「さようなら原発1000万人アクション」


<一日一書>(七)

『今日は金曜日。
天気は梅雨の晴れ間だが、はっきりしない。』


さて、今日の話を始めよう。

2011年06月16日付け朝日新聞夕刊で、『東京電力福島第一原発の事故を受け、ルポライターの鎌田慧さんや音楽家の坂本龍一さんらが呼びかけ人となり、国に「脱原発」への政策転換を求める1千万人の署名運動が始まった。9月19日には東京・明治公園で5万人規模の「原発にさようなら集会」も開く。

呼びかけ人は、ほかに経済評論家の内橋克人さん、作家の大江健三郎さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さんら。原水爆禁止日本国民会議(原水禁)などでつくる実行委員会が支える。署名は、来年2月まで集め、衆参両院議長と首相に提出する計画という。』の記事を読み、早速、<さようなら原発1000万人アクション>
http://www.peace-forum.com/no_nukes/
のHP上からインターネット署名を済ませた。

その際に、次のようなコメントを付け加えて置いた。

「核分裂や核融合を利用してエネルギー(電力)を得ようとするのは、科学的見地からしても間違いです。「人間にコントロール可能」という見通しの全く無いまま、見切り発車で、原子力利用に踏み切るのは、人類に対する背信であり、自然に対する冒涜です。
原子力発電を進めようとする政治や企業の方針は市民(国民)を欺瞞し、人類の未来を破壊する暴挙に他なりません。」

また、東京の明治公園で、以下のような集いも計画されているようなので、出来ることなら筆者も参加したい。 

「原発にさようなら集会」を、つぎの要領で開催いたします。どうか皆さんでご参加ください。

日時……2011年9月19日 13:00~
場所……東京・明治公園
集会規模……5万人(集会後、パレードがあります)

集会呼びかけ人

内橋克人
落合恵子
鎌田 慧
坂本龍一
澤地久枝
瀬戸内寂聴
辻井 喬
鶴見俊輔

2011年6月16日木曜日

「詩をきっかけとして考える会」6月例会案内


5月例会出席者はK、S、TさんとJの4名。

Yさんよりお手紙を頂いた。それによれば、病院での精密検査の結果、大腸ポリープが発見され、内視鏡手術を受けたが、食養生を経て回復、元気になられたが、大事を取り静養のため、欠席とのこと。6月例会出席を切望すると追記されていた。

5月例会日程決定に際し、「可」というご返事であったが、今回は欠席と、Mさんよりメール連絡有り。

Nさんは体調は略回復されたようであるが、多忙のため、スケジュール調整がつかず、欠席の旨連絡あり。

例会では、伊勢市朝熊町で開催された「橋本平八(彫刻家)と北園克衛(モダニズム詩人)のシンポジウム報告。余談として、北園克衛氏のご親戚の方から直接声を掛けられ、克衛氏のご子息明夫氏と小生のプライベートな友人関係の話題を含め、親しく話を交わすことが出来たこと。

また、主催者の一人、伊勢市で古書店「ぽらん」を営む傍ら、北園克衛および竹内浩三の研究者でもある奥村薫氏と知り合い、北園克衛全集未収録の作品コピーを頂戴した。当方よりは「和歌山戦後詩史」を進呈し、再会を約した。

他のテーマとして、講演会「普天間基地と日米安全保障条約」(講師 伊波洋一氏)エッセンスの紹介およびNHKドキュメンタリー映像「日本列島-奇跡の大自然」第一集を視聴し、この国の自然が齎す特異かつ豊かな恵みや、地球上に占める位置、環境について語り合った。 

6月例会予定テーマ:

(1)中上健次原作の映画「軽蔑」について
(2)映像BS世界のドキュメンタリー「被爆の森は今」の視聴
(注)チェルノブイリ原発事故から25年経過した今、半径30キロ以内は未だに立ち入り禁止区域となっており、一般人の立ち入りは認められていない。しかし、例外として科学者には、絶好の放射能汚染実験場として利用されている。今、この区域内に存在する生物はどうなっているか?非常に興味深い記録であると共に、「放射能」というものが、一般人には殆ど正しく理解されていないように思えるのだが、この映像は、その理解のための「きっかけ」が示されているように感ずる。
(3)その他

例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
      日時: 6月22日(水)午後1時30分より

               「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

<附記>PCメール利用の方々だけしか受信できないでしょうが、友人から入手した放射能に関するゼオライト・ラボ情報を添付します。

<更に余談>このお知らせが遅れた理由にも関係するのだが、電子書籍を作成し、有料販売することを計画、準備している。そのために書いた原稿<一日一書>中の本会に関連する一部を紹介して置きたい。(文責: H.J.)

『有志で月一度の割合で「詩をきっかけとして考える会」をやっている。会の命名どおり、たとえば、若くして戦場で消えた、伊勢の詩人竹内浩三を偲び、彼の詩をきっかけとして「戦争」について、考えるようなことであるが、参加者の意向で、テーマは限定することなく、拡がる。

今は、原発関連や自由貿易関連のTPP参加可否、また震災と日本列島についてなどが中心になっている。

いずれ、テーマとして、それだけに絞って、取り上げてみたい、と考えているのは、「創作」のために、それまでの古くさい「秩序」を壊そうとした、伊勢の産んだ詩人「北園克衛」と紀州の産んだ作家「中上健次」。
モダニズムの旗手として、海外での評価の方が高い、北園克衛。生れ故郷よりも外で、より高く評価され、理解されているように思われる中上健次。

予てより関心のある二人の墓参りは、既に済ませているが、お二人に、個人的により関係の深い方々とも知遇を得ているので、そのお話も是非聞いてみたい。会場は、いつもの和歌山県海南市駅前「ヴァンサンカン」でもよいし、場合により、和歌山市、紀南の田辺市、または中上の生地新宮市、あるいは、東京の新宿(中上)、赤坂、飯田橋、広尾、銀座(北園)それぞれ所縁(ゆかり)の地もまた、面白いかも知れない。

関心のある方は、筆者にプレッシャーを掛けられたし、生来の怠惰故。』

2011年6月14日火曜日

電子書籍出版予定



  前回、書いたように、技術翻訳の依頼が無いので、金を稼ぐため、売文業に専念することを決めた。こちらも注文があった、というわけではないが。

ところで、Web上にパブーの「ブクログ」 http://p.booklog.jp/ というのがある。ここで自分の原稿を電子書籍にして、有料販売することにした。既に一冊は「夢* 現(うつつ)物語(第1話-第10話)として完成間近である。販売開始の際は、改めてご案内するが、今からよろしくお願いして置く。

ここで購入した電子書籍は、自分のPCにダウンロードして自由に読めるし、iPad、iPhone、KidleやAndroid携帯で読むことが可能。

今の状況で自分に必要なのは、原稿を書くこと。それで、「夢* 現物語」を続けるのと並行して、毎日一つの文章を書くことを己に義務づけることにした。果たして、約束を守り続けることが出来るか、どうか定かではないが、兎に角やるしかないだろう。これも纏めて、いずれ電子書籍にして販売したい。

第一回目を、参考のため以下に披露しておこう。

『<一日一書>(一)「ヒトよ、驕るなかれ!」

「今日は土曜日です。
天気は雨です。梅雨真っ最中ですから当たり前ですよね。」

さて、今日から毎日、何か一つずつ書くことにしました。

書き方は色々です。ジャンルも、長さも、その他、何も特定しません。

何故、書くか?理由も種々あります。追々触れることになるでしょう。

今日の話を始めます。

二十一世紀になれば、何か素晴らしい世界がやって来るのではないか、と期待した、ミレニアムから十年経ってみて、良くなるどころか、益々悪くなっているように見えます。

戦争は途切れることなく、彼方此方で続いて居るし、国家という組織が、力を持ち過ぎた結果、益々愚かで、暴力的な振る舞いをするようになりました。国境とか、国際的ルールを全く無視し、他国に、ずかずか土足で踏み込み、都合の悪い人間を勝手に殺害し、『これは正義だ!』とキャンペーンすると、それに躍らされた人々が「殺人」について、歓呼の声を上げるのです。

それをTVというメディアで、映像として眺めながら、ビールを飲んだり、コーラーを飲んだりしながら『ああでもない、こうでもない』と話題にして、一日の憂さを晴らしたりします。

そんな状態ですから、当然、消耗材が必要以上に増え、電力を浪費し、天然資源がどんどん減少し、慌てゝ浅知恵の癖に「技術」という人間だけが手にしたツールを駆使して、未だ制御の見通しの立っていないエネルギーに手を出しました。

地球上で極東と呼ばれる地域にある、小さな、その癖、経済大国、技術先進国などと評されて、いい気になった島国が、原子力発電に手を出すに至りました。

科学的な見地から、識者に、その危険性が不明であったわけではなく、それに対する反対の正論も、当然ありました。

しかし、どういう訳か、比較的愚かな人々により、国が舵取りされていることゝ、それを利用して、うまい汁を吸おうとする輩(やから)の悪だくみを、市井の人々が見抜くことが出来ず、正論を述べる人々は「夢想家」として、排除されて来ました。

突然、大地震と大津波が押し寄せると、根拠の乏しかった『安全神話』は、完膚無きまでに叩き潰されました。犠牲となったのは、騙されていたり、半信半疑の侭、世の流れに翻弄されていた市井の人々です。それにしては、余りにも代償が大き過ぎたかも知れません。

しかし、「人間の浅知恵」、「人間の無力さ」、「人類の驕り」、「巨大な自然に対し、改めて感ずる畏怖や尊敬の念」等々、色んなことを反省させられる、良いきっかけ、となるかも知れません。

要は、これからです。それを教訓として生かせるか?単なる不幸、大惨事ということで終わらせてしまうか?

人類には「分(ぶん)を弁えた」生き方が必要です。人が住んでいる、この天体は、他の動物や、植物のものでもあるのです。

「ヒトよ、驕るなかれ!」』

ご感想、ご意見等あれば、是非お聞かせ願いたい。

2011年5月26日木曜日

Twitter投稿


仕事がない。だからカネが入らぬ。カネが入らぬから住宅ローン返済不能となる。家を売って返すこと考えていたら、海の傍の景勝地は価格ダウン。残額に足りぬ。老人一家ホームレスに落ちるか?その前に一家心中するか?幻の大地を約束した国よ!この怨念を食らえ!

2011年5月5日木曜日

「詩をきっかけとして考える会」5月例会案内

お知らせ第110504号 
 4月5日花見を兼ねた例会は、天候に恵まれ、場所もMさんのご尽力で一等場所が確保され、十分に愉しむことが出来た。Sさん手作りの弁当はプロ顔負けでボリュームたっぷり。年配者には食べきれないほどだった(小生にも昼だけでは多すぎたが、当日、和歌山城へ花見のハシゴをT、Aさん共に行った際、酒のアテとしてきれいに平らげた。「食べ物は無駄にしない」という子供の頃からの習慣を今こそ、復権、徹底させるべきとき)。他にもMさんからの焼き鳥、Aさんからの釜揚げしらすの差し入れがあり、晴れた花の下、豊かな宴となった。

 その後、会場を隣接する温山荘に移し、コーヒーと京都河道屋のそば餅(挿し入れ-J)で「東日本大震災」や「原発事故」関連の話題を話し合った。更に、下記の可愛い特別参加者のために、Tさんの小型ハープ演奏による童謡歌唱もあった。4月例会参加者はK、M、S、T、AさんとJに加え、Sさんのお孫さん2名であった。(事前にYさんより、失念していた所用により欠席、Nさんより体調調整事由による欠席の連絡を受けた)
 
 この花見例会報告に引き続き、昨日(5月3日)までは、次の例会テーマを簡単に挙げて締め括ろう、と考えていたが、世情がそれを許さなくなった。5月2日付朝日新聞夕刊の大見出しには「ビンラディン容疑者死亡」とあるが、皆さんはこれをどう受け止めるだろうか?
 私は報道の姿勢を先ず疑いたい。「殺害」という表現が、伝えるべき事実に基づく情報ではないのか?引き続く私感は、「力は正義(法に勝る)なり」ということである。一極支配の現実においては「国際法」が(解釈は多義であるにせよ)単なる言葉の上だけの存在に過ぎず、恰も国連活動の実質的効力の乏しい事実と同様の現象として目に映る。
 国際法違反とされる事実関係の羅列も腹立たしいので、極近い「時」と身近な「場所」(日本、アジアなど)だけにするが、サダム・フセインの誤情報に基づく殺害、ベトナムでの枯葉剤散布、クラスター爆弾投下、日本における原子爆弾や焼夷弾投下による非戦闘員を巻き込んだ無差別爆撃、テロリストであるという予見に基づき無法に逮捕した外国人のグアンタナモ基地における抑留、その取り扱い、また日米安保条約締結前の沖縄占領状態をそのまま維持し続けている不法等々。これらが、実質的に支障なく、やりたい放題で罷り通っている、この現在の世界の状況を、世界中の人々がどう捉え、どう考えているのか?私は是非聴いてみたい。

 更に本日(5月4日)付け朝日新聞朝刊には、上記に関連し、それらを補強する情報としてウィキリークスから朝日新聞に提供された日本関係の米外交公電について報道が為された。それに依れば、たとえば、沖縄米軍移転費(所謂思いやり予算)について、水増し操作を行い、日本側負担軽減を装った、とある。これを読むと、政治家(日米双方共)や官僚というもの(組織や実体)が、およそ市民感覚とは無関係な上、市民の求める方向に適応しようという考えの全く存在しないことが明らかである。

 「力は正義なり」、「利益は力の果実なり」、「対立は力で抹殺!」彼らが信奉しているのは、ただそれだけ、と言っても決して言い過ぎにはなるまい。
 個人が幾ら吠えても、喚いても単なる徒労に終わるのなら、いっそ永井荷風山人のように、世間が一斉に(勿論、報道機関も、出版社も、知識階級も)狂気の戦争を正義の聖戦として突っ走った時代にも、それとは全く無関係な自己の生活を、独りで貫き通した、そういう生き方が羨ましい限りだ。(そうは言っても、荷風山人は、そういった世間を是認していたわけではなく、日誌「断腸亭日乗」(このタイトルからして、そうだが)で、冷ややかに軍部や政府、一般庶民の惰性を喝破しているのは、ご承知の通りだ。
 ここで、ひたすら己の無才と無力感を覚えるのもまた、宜なるかな(この行は無視。単なる自嘲と愚痴のみ)。

5月例会予定テーマ:

 (1)4月28日(木)『憲法を考える夕べ』で催された講演会「普天間基地と日米安全保障条約」(講師 伊波洋一氏)エッセンスの紹介
 (2)5月15日(日)伊勢市朝熊町で開催される「橋本平八(彫刻家)と北園克衛(モダニズム詩人)を偲ぶ会」取材報告
 (3)「日本列島-奇跡の大自然」第一集(NHKドキュメンタリー映像)により、この国の自然が齎す特異かつ豊かな恵みと同時に、地球上の特異な位置、環境に在るが故の大災害発生確率の高さをも併せて勉強してみたい。(この状況では(3)項まで進むには時間不足かも?)(文責: H.J.)

例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
      日時: 5月18日(水)午後1時30分より

               「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

2011年4月30日土曜日

T.M.さんへの近況報告


ご連絡有難う、元気です。暫くブログなど書いていないことは自分でも気にしていました。勿論、それなりの理由はありますが、ゆっくりそれを説明する前に、昨夜や最近時間を取られていることをちょっと記しておきましょう。

昨夜(2011-04-28)は青年法律家協会和歌山支部主催の「憲法を考える夕べ」の一貫で催された「普天間基地と日米安全保障条約」と題された講演会(講師:前宜野湾市長 伊波洋一氏)を聴いてきました。
世の中が大震災の方ばかり向いているときだからこそ、意味があるのではないか?と考えました。そして、矢張り得るところはありました。私を含めて大方の日本人は、日米安全保障条約の実態についての理解が余りにも不足しているのではないか?という実感です。

日本国民は第二次世界大戦の真実とその責任追求を根底から行わないまま、敗戦の荒廃から世界第二位の経済大国となったことで自らをも、そして世界の人々をも曖昧なまま何となく誤魔化して今日まで来てしまった、と思います。

そして、今また東日本の大災害、特に原発大事故の依って来たところの人災(政治家や高級官僚と大企業の癒着、怠慢、欺瞞、洗脳などの他、庶民の不勉強、無知、無関心など)の責任の所在を追求することなく、日本人の美徳とされる、思いやりや協力という、所謂美談、世界各国から寄せられた応援を感謝し、力にして(多分)再び復興を遂げるでしょうし、そうなるとまたもや問題の本質追究、総括をすることなく、同じことの繰り返しをするだけに終わり、結局この国の人々のお目出度さは脈々と受け継がれることになるのであろう、と私は考えるのです。

まあ、この問題は私として、これからも飽きずに述べて行くことになるでしょう。身近な問題としては、母の介護保険の適用実態、運用について利用者サイドとして矛盾、不自由、不満を感じ、この点を市役所に出向いて調べ、利用中の介護施設の対応をチェック、検討しているところです。

それと、自分の書く文章を違った分野(たとえば、文学)の表現で、何とか他人様に読んで頂ける程度に書けないか(残された時間からして今更、間に合わないかも知れないのですが)拙い試みに時間を費やしています。
いずれ、ボチボチと連絡させて頂きます。

2011年3月28日月曜日

驚嘆すべき日本人!


 『2011年3月28日14:53  :

> ドイツ人の原発についての危機意識に感銘を感じました。
> 娘の会社はドイツ系の商社です。バイオの薬品等を売っております。女子はだいたい日本人ですが、男子はドイツの人です。地震の時たまたま会社のトップが来ていて大分驚いたようです。即退社避難を命令、タクシー使ってよし、とのことでしたが乗れるわけがありません。歩いて帰宅しました。月曜日出社したところがすぐに自宅待機になり、三日程で大阪へ出張になりました。娘は理由がわからず事務所に抗議すると、新宿にはシエルターがないからだといわれ、大阪へ行きました。とにかく核にたいする危機意識は、被爆を経験している我れ我れ日本人よりかなり強いものだと思いました。   箱根以東はカザフスタン化すると考えているんじゃないかと思います。』


 上に掲げたのは、中学、高校時代の友人からのメールで、以下が私の返信です。

 全く、同感です。日本人はオメデタ過ぎます。『箱根以東はカザフスタン化すると考えているんじゃないか』こちらの判断の方が現実の姿に近い、と考えます。確か、新聞に次のような趣旨の記事がありました。外国人の見た日本人の姿についての意見です。『危機的状況にあっても忍耐強く、整然として秩序を維持する日本人の姿は驚嘆に値する。一方で、政府(お上)を信頼し過ぎて何の疑問も持たず、抗議もせず、言われるままに従っていることが理解できない。』

 元もと原発推進は国と大企業の政治的に汚れた裏取引による(住民の安全性確保の見通し無しでの)見切り発車事業ですから、自らの大失敗を出来るだけ隠そうとするのは当然です。たとえ、起こってしまったことでも、都合の悪いことはなるべく隠し覆そうとし、隠し通せない場合のみ、良い結果と悪い結果が五分五分の場合、良い方だけに光を当てるように御用学者(世間では権威があると思わせる肩書き)を利用しているのが、見え見えなのですが、どういう訳か?大勢の日本人はそのからくりに一緒に乗って、自らの疑問まで押し流した上、いかさまな、汚れた藁の方を掴んで(みんながそれで安心しているのだから)自分もそうしよう「赤信号みんなで渡れば怖くない」思考とそれに即した行動です。この傾向は先の愚かな戦争に突入した際の状況と同質で、そこに何らの進歩も、また学習の効果も見られません。このままでは、日本という国が消滅するまで続く泥濘でありましょう。

 出国可能な外国人は日本を離れ、日本からの食料品はもとより、それ以外の輸入品についても放射能チェックが、既に実施されています。これが現実です。外国人の反応が過剰なのではなく、日本人が鈍感で、愚かで、誤った権威に弱く、ひたすらオメデタイだけです。
 私は日本人なので行くところがありません(スペイン在住の日本人の友人は居ますが…。今更、そこまで避難できないし)。仕方がないので、私も『放射能汚染被害、みんなで被って、世界人類のモルモットになろう!』と覚悟を決めました。『花の下にて春死なむ!』

2011年3月25日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」お知らせ-110325番外編


 殊更、不安を煽り立てる気持ちは毛頭ありませんが、意図的あるいは不正確(たとえば、設定条件が不十分)な情報や伝達方法を見聞する度に黙っていられなくなります。


 少し長くなりますが(数字や計算だけで頭が痛くなると言う方も、我慢して、以下一通り目を通して下さい。貴方ご自身や、お子さん、お孫さんに直接関係のあることですから)、友人の療術士から提供された情報です。先の連絡でも触れましたが、科学的立場では、数値の大小だけ取り上げてみても意味がありません。条件がはっきり特定されてこそ、その条件下の影響を考えることが出来ます。

 また、人体に対する影響の有無と言えば、物理的数値だけで云々できぬ事も当然です。生きている人体が、どれほどその物質を吸収、蓄積するか?等も当然、判断の基準にすべきだからです。言いたいことは、良きにつけ悪しきにつけ、数値の大小だけで物事を判断しようという態度は棄てるべきです。発表される数値や情報が、十分に条件を抑えた、判断材料として利用可能なものかどうか?を冷静に見極めて頂きたい、と思います。

都合の良い情報であろうが、悪い情報であろうが、
客観的に成立し得る物差しをもって、自分の頭で冷静に判断する姿勢を貫くことが、こういうときこそ特に大切だ、と思います。私が申し上げたことは釈迦に説法で、何を今更…、というリアクションがあれば、それでよいので、その際は私の取り越し苦労を笑い飛ばして下さい。

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『ゼオライト・ラボ情報 2011.3.25. グループの皆様にお伝え下さい


☆放射線量の計算の仕方(1) 放射能の強さはベクレル(Bq)という単位で測りますが、
人体の被曝量(放射線を浴びた量)はシーベルト(Sv)という単位で測ります。このシーベルトと言う単位について知人の大学の量子生物学教授に聞いてみたところ次のような回答がありました。

世界の人々が1年間に何もしなくても浴びている放射線の被ばく量は、平均2.4ミリシーベルトと言われていますが、この場合は、時間あたりの単位と区別する必要があります。1年間を時間に変換する必要があるからです。1年間は1日24時間×365日=8760時間です。だから、2.4ミリシーベルト/8760
= 0.000274ミリシーベルトとなります。

1,000倍してマイクロシーベルトに変換すると、0.
000274ミリシーベルト=0.274マイクロシーベルト
つまり、毎時(1時間当たり)0.
274マイクロシーベルトになります。ですから正確に言うと毎時0.274マイクロシーベルトを24時間365日被曝し続けると、2.4ミリシーベルトに到達する計算になります。」

政府から指示された雇われ御用学者たちやマスコミはこの毎時シー
ベルトをうまく使って私たちに誤った安全性を植え付けようと欺いています。毎時シーベルトで計算される環境はそこに1時間だけいることで被曝する放射線量ですが、そこに居住して長時間放射線にさらされる場合とはまったく違った環境なのです。法律では「普通の人は自然放射線を除いて一年間に1ミリシーベルトまで」と決められています。これを毎時シーベルトに変換すると1ミリシーベルト/8760
=0.0001ミリシーベルトとなり、
これを1000倍すると毎時0.1マイクロシーベルトとなります。正確に言うと法律では毎時0.1マイクロシーベルトのところに1年住み続けることが被曝量の限度なのです。

国の発表やテレビで報道しているシーベルトは毎時が省略されてい
る場合が多いですが「1時間あたりのシーベルト」ですから、42日間(24時間×42日)住むとその約1000倍になります。1年住み続けるとその8760倍になるということです。白血病になるシーベルトは約400ミリシーベルト毎時といわれているので1時間400マイクロシーベルト毎時のところに1時間いても大丈夫ですが、40日間あまり住んでいると白血病になることになります。365日住み続けると3500ミリシーベルト、すなわち3.5シーベルトとなりのっぴきならない事態を迎えることになります

CTスキャンで全身を撮影すると少なくとも700マイクロシーベ
ルト毎時の放射線を受けますが、もしも700マイクロシーベルト毎時が検出されているところに42日住むと1000倍になって70万マイクロシーベルトすなわち700ミリシーベルト以上になり確実に白血病になることになります。このように国やマスコミが説明していることに重大な疑問を生じることを理解していただければ幸いです。

1シーベルト=1000ミリシーベルト=
100万マイクロシーベルト

0.001シーベルト=1ミリシーベルト=
1000マイクロシーベルト

0.000001シーベルト=0.001ミリシーベルト=
1マイクロシーベルト


●7シーベルト毎時 (7000ミリシーベルト毎時):     全員が確実に死ぬレベル

●4シーベルト毎時 (4000ミリシーベルト毎時):     半数が死ぬレベル
●400ミリシーベルト毎時:                   白血病になるレベル
●1ミリシーベルト(1年)=毎時0.1マイクロシーベルト: 法律で定められた限界レベル』

2011年3月23日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」4月例会案内


今回もMさんは講師を務める大阪のカルチャーセンター出張にて、またNさんは予定の手術を全て順調に終了されたが、暫く療養を続け、体調の回復を図る旨の事前連絡で欠席、3月例会出席者はY、S、T、A(敬称略)およびJの5名であった。
 例会では、前回のお知らせ(下記項目)の、コーディネータJによる見解に対する参加者諸氏のご意見を伺い、実践可能な行動を見極めて行きたい、と企画していた。

 1.価値判断の基準が経済(お金の仕組み)に偏りすぎていないか?
 2.米国スタンダードのグローバル化神話に惑わされていないか?
 3.中央集権、首都一極化は行き詰まりつつあるのではないか?

しかし、3月例会では急遽テーマを次のように変更して、進めた。

 (1)東北関東大震災の状況
  東北の状況はマスコミからの情報しかないが、関東(東京都、神奈川県)は、長年住み慣れた関係で、Jが、親族や親しい友人から直接得た情報を報告した。
それによると、地震の規模は70歳後半まで東京にずっと暮らしていた友人達にとって、今まで体験した最大のものであった、という一致した答えを得た。また、杉並区在住(マンション3階)の長男家の居間では、テレビ台上の大型テレビが床に落下、キッチンでは食器棚のガラス戸が外れ、中の食器が一部落下していた(いずれも不在中)。2階建ての木造家屋の場合、同じく杉並区の友人宅は屋根瓦が落下寸前状態で、地震の際、畳に腰を下ろしていたその友人は長い横揺れのため、立ち上がることが出来ず、一時は「これで終わりか」と覚悟したほどだった。神奈川県相模原市の友人は、屋内に居られず、庭に飛び出した。更に、東京都町田市の友人(マンション10階)は、大きく、長い揺れの間、柱に掴まり、立っているのがやっとで、棚から滑り落ちる物品を、ただ放置するだけで、後片付けが大変とのことであった。
 実は、今回出席のAさんは、地震発生時に東京の新宿駅で、九段方面へ向かおうとしていた、とのこと。激しい揺れに恐怖を感じた、という。その後、全ての交通機関が停止したが、辛うじてタクシーを拾い、目的地に向かうことが出来た。帰郷に際し、予定していた夜行バスは運行停止、一夜を明かした上、翌日幸運にも新幹線指定席の購入に成功、やっと和歌山に戻ることが出来たが、その間、全く電話は不通で家族と連絡を取り合うことさえ出来なかった、という実体験報告もあった。

 (2)原子力発電所-放射能の問題点
  東北地方を襲った大地震、巨大津波の惨禍もさることながら、原子力発電所が"out of control"状態に陥ったことは非常に深刻な問題であるだけではなく、現時点でも事態終息の目処が充分立っていると言えないのは、大問題である。予てより、原発のメリットとして二酸化炭素排出の無いことのみクローズアップされ、実は二酸化炭素とは比較するのも躊躇われる程の被害を齎すであろう、使用済み核燃料物質由来の放射線問題が等閑にされている現実を奇異に感じて来た(J)。
 図らずも今回、安全神話に基づき国と大企業により、周辺住民や識者の懸念をよそに、密かに、そして狡猾に進められて来た計画が自然の猛威の前に完膚無きまでに、その醜悪な実態を晒す結果となった。
 一般に、科学の世界では条件の設定如何により、全く逆の結果を齎すことさえあり得るし、数値の大小は飽くまで相対的な比較の問題である。言いたいのは、『直ちに人体に被害を齎す量ではない』というような発言の無責任さ、根拠の無さを指摘することに尽きる。『直ちに人体に被害を齎すケース』とは爆発時の放射能を直接大量に浴びるとか、原子爆弾を間近で被爆した場合に限られ、それ以外は全て前者に当て嵌まる。問題は、今後『経時的に人体にどのような悪影響を及ぼすか』である。
 人体に付着した放射性物質は洗い落とすことは出来ても、洗い落とされた物質の放射能が直ちに消滅するわけではなく、半減期を順次経過して行く放射線の減衰をただ漫然と待つことしか人間に出来ることはない。その間に野菜や作物の放射能汚染は勿論、進行するであろうし、海水の汚染から海産物にまで影響は及ぶであろう。これは一産地の問題に留まらず、回遊魚などによって全国的な問題となり得る。
 そもそも原子力発電所の建設そのものが、使用済み核燃料廃棄物の、納得の行く処理方法のない侭、見切り発車された、と考える(J)。放射線を放出し続ける物質を、ただ隔離し、人々の目の届かない場所に隠蔽するだけが、現在唯一の処理手段というのが現実であろう。

 では、不足する発電量を初めとする我が国の課題を今後どのようにして解決すべきか?手前味噌になるが、前例会での論述『この狭い国土で巧みに暮らして行かねばならぬ我々にとっては、「己の身の丈にあった生き方」を選択する方向こそ、それだと言えるのではないか。市場原理主義に基づく経済偏重、経済至上思考、効率化一辺倒思考により不毛となりつつある我が国の精神的風土の再生と、様々な共生の仕組みを工夫することにより、あらゆる世代、あらゆる地域の活性化を目指すべきだろう。』(文責:H.J.)。

 4月例会は、昨年の例に習い、海南市の温山荘園および隣接する公園での花見を兼ねて行う(雨天決行-雨天の際は温山荘にて)。今回は勿論、常の例会でも参加資格は特別に設けず、誰でも、いつでも(出欠自由、参加、退出時間も自由)。また、会費の徴収などは一切行わないが、その都度、参加者全員の頭割りによる実費負担(会場使用料)および自分の飲み物代などは各自負担)を要する。

 また、今回は花見のため、有志メンバーのご厚意による手作り弁当、若干の飲み物、つまみなどを用意(各自実費負担)。この他に温山荘の一室半日使用料2,500円の参加者頭割り分およびコーヒー代300円の他、温山荘園維持会員を除く一般の方は入園料300円が必要。参加者の駐車場利用は無料。
 奮ってご参加下さい。尚、弁当準備の都合上、今回に限り、参加ご希望の方はその旨、4月2日(土)までにご連絡下さい。
 (今回も地元海南市在住のMさんが、花見の場所取りなど格別にご協力下さいます。)

 花見の後、温山荘へ移動し、コーヒーで歓談するが、一応テーマとして今回の「東北関東大震災」と敗戦直後の日本の被害状況との対比や復興の見通し等について、話し合ってみたいと考えて居る。

 例会日時および場所は下記の通り。

       集合場所: 海南市「温山荘」入園券売り場前
           日時: 4月5日(火)午後1時

                 「温山荘」園  TEL: 073-482-0201
          
(大変長いお知らせとなりましたが、番外として療術士の友人から提供された放射能関連情報を以下に添付します。)

『ゼオライト・ラボ情報 2011.3.21. グループの皆様にお伝え下さい

□放射性物質と液体ゼオライト(4)

放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線、エックス線などのような体を突き抜ける一過性のものと放射性物質のように体内などにとどまって消えるまで放射線を出し続けるものがあります。レントゲン検査のときは一過性のものですが、ストロンチウム、セシウム、ヨウ素などの放射性物質は体内にとどまり、付着した場所で放射線を出し続けるので微量であっても大きな被害を蒙ります。もうすでにおかしいと感づかれた方もおられるかと思いますが、連日TVや新聞で放射線の危険性を説明するときに、放射線量だけを基準にして比較しています。一過性に浴びる場合と、体内被曝する場合との区別をしないようにして巧妙に比較しています。このような説明の仕方によって私たちに誤った安全性を植えつけようとしているのがよくわかります。博識の専門家の方々でしたら十分理解しているのにまったく口を閉ざしているのを見ると情報がコントロールされているように思えてなりません。かと言って体を通り抜ける放射線が安全だとは決して言えません。免疫を下げたり、発ガンを促したり、DNAを傷つけたりして一時的にまた長期的に後遺症を残したりします。どちらにせよ放射線は怖いものです。』

2011年3月18日金曜日

老々介護の天災避難


今回の大震災の際、和歌山市に発令された大津波警報について、東京の高校後輩(現在、広島県在住)の友人から貰ったお見舞いメールに対し、私から発信したメールを参考のため添付します。


『Re: ケ・セラ・セラ
返信
|
From J
 To XXXX
   
詳細を表示 3月13日 (4日前)
   
お見舞いありがとうございます。TVで繰り返される規模の津波が来れば、どう足掻いても逃れられぬ環境にあります。避難勧告は出ておりましたが、満足に動けぬ母と一緒では気休めの避難は事実上無益です。全てが落着すれば、それも一つの解決と覚悟していますので、避難はしませんでした。結局、実害は全くありませんでした。それより、東京の被害や障害の方が遥に大きかったようで、いつも貰っているお見舞いの連絡をこちらから多数の友人達にしました。今まで体験した内で一番大きな地震というのが、一致した意見でした。次はこちら方面に来るでしょうが、その時には空の向こうにいるか?消滅して何処にも居ないいないでしょうから全く問題ありません。




私の環境と立場を理解して頂くために再録しました。3月15日夕刻、日課の片男波海岸散歩の折、地元自治会の会長代理(昨年までずっと会長)の方と出会い、「Jさんは避難勧告の際、避難しましたか?」と質問されました。彼の話によれば、片男波自治会の避難達成率は和歌山市他地区に比べ抜群に高かったので、地元紙やNHK和歌山放送局の取材に際し、それを誇りたかったようです。しかし、上記メールのように私の答えは彼の期待を裏切ったわけです。私は避難しなかった理由として、自治会から予め問い合わせのあった調査の際、「避難に際しては、若い方の助力を要す」という欄に登録して置いたにも拘わらず、どこからも何の連絡もないし、津波の被害を回避できる高所まで、歩行補助器具を利用し、やっと屋内だけを僅かに移動できる99歳の超老人である母を、後期高齢者の私が自動車も利用することなく、同道して避難することなど現実問題として不可能だから、と述べました。


自治会の調査用紙に基づく対応策は「避難に際し、事前に”要援助登録”を済ませ、かつ一人暮しの老人世帯のみを対象とする(同居家族の居る世帯は除く)、というものだったわけです。
そこで、私は同居家族が居る(二世代世帯)といっても、若者が一世代として存在する世帯と、後期高齢者の世帯で更に、その親を介護している世帯とを同列に扱うというのは、いかにも「きめ細かさの欠けた」お役所視点の対応ではないか?と指摘しました。(同様な問題は介護保険適用時の「同居家族」の解釈、認定にも存在します)


私は老々介護世帯の天災避難に対しては、次のような対処方法があるのではないか?と常々考えています。


1.スムーズに機能すると考えられる対応策が無い以上、無闇にじたばたせず、敢然と運命に従い、高齢化社会問題解消に多少とも寄与し得るであろうと観念し、社会やお国のために率先して身を捧げる。


2.対応をもう少し、きめ細かく柔軟に実行する。たとえば、常識として災害時に車での移動は避けるべきであろうが、その種の駆動力無しでは自力で避難できない人々に限って、緊急車輛(ステッカーなどで、はっきり区別し、消防車や救急車のような)扱いをする。勿論、無益な混乱を避けるために、事前の調査、運用実験など十分な準備をする。


3.更に、準備、検討を要するであろうが、老々介護世帯個々に避難努力を委ねるのではなく、コミュニティの駆動力をスムーズに機能させる方策(たとえば、専用の救助車輛などの運行)を検討する。


(念の為、付け加えると、この問題は「老々介護」世帯に限らず、年齢に関係なくハンディキャップを有する家族を抱えた世帯に共通する問題である。)


ところで、私が投げかけた問題点をNHK和歌山放送局が聞きつけ、取材を申し込んで来ました。大学卒業したてのような若い女性記者が本日挨拶に来て、特に「老々介護世帯」について、日本全国で以上のような問題があるので…、と明日(3/19)夕刻、カメラマン同道、インタビューに応じて欲しい、とのことでした。
ローカル放送局の短いインタビューでは、十分な思いも伝えられないでしょうが、どなたか、上記の私の考え以外のご提案があれば、明日午後4時頃までにお知らせ下さい。出来るだけ、伝えるように努力致します。