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2009年5月29日金曜日

第一の故郷

 生まれ育ったのは東京である。それも半端な年月ではない。普通のサラリーマンなら定年を迎えるくらいの年齢まで生活し続けたのだから、誰が何と言っても第一の故郷以外の何ものでも無い。

 この写真は、5月22日夕刻、新宿伊勢丹横に設けられた「花園稲荷神社」の祭準備のための、新宿三丁目町会仮事務所である。

 次の日に、或る東京都立霊園内の墓地で営まれる亡父五十回忌を取り仕切るために、海の傍の街からこの第一の故郷へ戻って来た、というわけだ。

22日は朝、JR和歌山駅9時48分発の「オーシャンアロー8号」に乗り、夕方5時半にはここで、この写真を撮った。伊勢丹では、持参するのを忘れた封筒を補充し、その後、新宿ピカデリーで予てから観たかったクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』に行こう、と計画していた。

 イーストウッドがどうしようもない頑固爺を演じている。「どうしようもない」という意味は、「箸にも棒にもかからぬ」鼻つまみ者という訳では無い(多少はそうかも知れぬが…)。正確に言えば、己の生き方に苛立ち、他人に対し「どう適切に対処して良いのか?分からぬまま、殻に閉じこもらざるを得ない」孤独な老人を巧みに表現している。

 イーストウッドの実年齢は私と大して変わらぬ、彼の方が若干年上だが…。

 彼の演じる老人はただの頑固爺ではない。正義と人情、そして矜恃を有する男なのだ!男はどう生き、どのように死ぬべきか?心にズンと来る作品だ。(私の住んでいる街では上映されていなかったので、ここまで観に来ることになった)

2009年5月17日日曜日

原始の血

 古座川の一枚岩である。

 国指定の天然記念物の大岸壁で、高さ100メートル、幅500メートル。見る者すべてを圧倒する。 この一枚岩を見上げる河原で、司馬遼太郎は古座で知り合った人達から山菜をご馳走になった、という。

 
街道をゆく』<熊野・古座街道>には、「夜などひとりでこの河原にいればこの巨大な自然物の威圧をかわすのに、よほど無神経にならねばならないに相違ない」とある。

 実際にこの岩の前に立ってみると、思わず、時空を超えた素朴な畏敬の念を覚える。身体の中の原始から伝えられた血がざわめくのである。

2009年5月4日月曜日

紀州東照宮の和歌祭


 江戸時代元和八年(1622年)に始まったと言われる紀州東照宮大祭の渡御(和歌祭)が5月3日行われた。中でも知られた神輿おろしの様子が左の写真。

 108段の急な階段を男達が勇壮な掛け声と共に神輿を揺らしながら下ろす、というもの。

 大河ドラマ「八代将軍徳川吉宗」にも登場した。

 地上に降りた神輿に従い、神官や巫女の他、雜賀衆など武者や舞姫に扮した人々、母衣をつけた男達の渡御行列が片男波海岸を練り歩いた。
 

 別添の動画もお楽しみ下さい。


2009年5月2日土曜日

「革命」という言葉を識っていますか?

 手持ちの写真も色々ある。それに合わせて書くことだって色々ある訳だ。 有り過ぎて却って書くのが遅れてしまった。

 この写真は4月28日夜、和歌山県民文化会館小ホールで行われた斎藤貴男氏による講演会場で撮影したものだ。

 「平和と平等をあきらめない」ために憲法9条の戦争放棄や25条の生存権の遵守が今こそ強く求められなければならない、というのが氏の講演内容だった、と記憶する。昭和33年生まれの斎藤貴男氏と同じく33年生まれ、と言っても小生の方は西暦の1933年生まれだから、早い話、1/4世紀の違いがあり、彼の両親と私は多分略同年ではないだろうか?それでも彼の話の内容について私は略同意見である。講演後に設けられた質問時間に私は彼に訊ねた。この講演内容を具体的に実現すべく我々は何を為すべきか?一体我々に何が出来るのか?

 私の印象では回答は控えめで具体性に欠けていたように思える。しかし、その答え様から、私は彼があの場で発言できなかったことを逆に感じ取ることが出来た。彼自身、こんな話の内容だけで、望ましい方向が実現できたり、世の中が変わり得るとは思っていないに違いない。Webは不自由だ。書籍なら、そこまで遠慮する必要はあるまい。

 また、今のTVもメージャーのマスコミも、本来のジャーナリズムとして正しく機能していない。スポンサー(営利事業会社、つまり資本家)や政権に居座った政治家共に都合のよいように、やりたい放題に利用されているに過ぎない。

 この状態を打破すること!それしか解決の道は無い。大多数の庶民が、そのような読み方が出来るようになるまで(そんな時が果たしてやって来るか?私見では可成り悲観的だ)、この根本的問題の解決は無かろう。

 人間は愚かである。何世紀経っても一向に進歩の兆しが見えない。尤もそれでよいのかも知れない。人類(ホモ・サピエンス)だけが繁栄する必要なぞ、元々有りはしないのだから、地球や宇宙や他の種の立場からしてみれば…。

 何とか楽観的なことを書いてもみたいのだが、正直に言えば、今のところ、絶望と虚無しか私には見えない。


 昨日、1993年秋に出版された筒井康隆著「断筆宣言への軌跡」を入手して読み始めた。この文章を投稿する一つのきっかけとなったことは確かだ。