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2011年8月29日月曜日

「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内


8月例会出席者はK、M、TさんおよびJの4名。Yさんからは欠席理由のお手紙を頂いた。また、Sさんは急用。Nさんは、突発的な親戚のご不幸により欠席の旨、電話連絡があった。

例会内容は、次の通り。(1)今後の会の進め方について(後述)、(2)提示されたテーマおよびディスカッション。

(2)8月例会案内中に述べた「日本国家は15年(日中)戦争以来、機能不全に陥っており、それは福島原発事故が発生した現在まで続いて居る」という問題解決の一つのアイデアとして紹介した『”生きるための「新政府」を立ち上げたアーティストの、生活に密着した取り組み『原発事故を契機として迷走するばかりの中央政府を当てにせず「新政府」が避難民を受け入れ、福島県の子供達にサマースクールを用意。半年以内には格安の“団地”も実現させる』という事例および国家組織や、それを象徴する大本営の拙劣な対応の一例として『敗戦翌日に高知県香南市の海軍基地内にあった、ベニヤ板製の特攻艇「震洋」23隻が出所不明の出撃命令待機中に火災事故が発生、全艇が爆発炎上、111名の特攻隊員が犠牲になった』という事例について話し合った。

(1)本会の創立メンバーの一人であるH.Y.さんは、ご高齢のため暑さを避け、涼しくなる9月例会からの出席を切望されていたが、定期検査の結果、やゝ高いPSA値が出た由。医師の見解は年齢を考慮して、本人の自覚症状が出た段階で適切な対応処置を検討する、という結論であった。従来通りの行動に支障があるわけではないが、万一の突発的トラブルを恐れる、ご家族のたってのご意向で、外出は事実上不可能、悪しからず了承されたい、というご連絡を受けた。
本会の核心である「詩」について長年の経験と知識を有し、また参加メンバー中唯一の戦闘体験者として貴重な証言を身近に提供して頂ける方をメンバーから失うのは、大きな痛手である。誠に残念であるが、ご本人の健康やご家族のご意向となれば、如何ともし難く、そのご意志に従う他は無かろう。個人的には、お元気で居られる限り、色々とご教示頂く心算で、連絡を絶つことなく、御機嫌伺いし続ける方策も検討して行く。

以上のような状況から、会の存続、名称、今後の方向性も含め、会場(従来、海南駅前ヴァンサンカン)の場所も、Yさんの便宜を考慮して決められて来たところから、その変更についての必要性等々相談し、検討した。

元々本会設立の趣旨はその名称に示されるとおり、「詩」をコアに置き、そこから派生するあらゆる問題に目を向け、最終的に人間が求める理想的な「詩」に向かって進むことを目的としていた。ただ、此所で注意して欲しいのは「詩」を単なるポエムという限定された概念として捉えるのではなく、「詩」という一つの言葉で代表されるものより、更に広い概念、つまりアート(芸術)という意味で理解すべきことだ。
本会のあり方について考えるこの機会に、会の名称も、勘違いされないような名称に改めるのもベターなのかも知れない。参加メンバーからのご意見を頂きたいが、私案として取り敢えず提案したいのは「識り 考え 伝える会」である。

また、たとえ名称変更したとしても、会の性格および方向性はそのまま保ち続けたい。より具体的に述べると、8月例会において私が紹介した国際政治学者坂本義和氏の考え方である。朝日新聞オピニオン欄では、「知識人」についての定義であったが、私は「知識」についても、同じように考えて良いと考える。
すなわち、「知識」を成立させるためには「批判力と構想力の二つの軸を持て」と言うことである。つまり、一つは現状に対する批判力、もう一つは構想力。構想力とは、間違った現状を超える、まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力と言うことになる。そして、従来は大学人が総合雑誌や新聞の論文から学んだ論理的説得力が重んじられたが、今や歌や映像や漫画など感覚で訴えるものの比重が大きくなった。かって、大学人が果たした役割を作家や芸術家が果たすことが多くなった。こうした広がり自体はむしろ歓迎すべき傾向だ。

「批判力」と「構想力」は市民レベルで議論しながら急速に積み上がっているのではないか、と坂本氏は考え、更に「市民の小さなグループがあちこちに出来て、地方にも広がり、それなりの成果を上げている。他方、国家を超えて、世界中の人達とインターネットを通じて直接意思を通じ合い、同じ人間として、どういう社会を作るのか議論をしている。新しいタイプの市民的な知識人が生まれている」と述べている。

本会の方向性は将に此所にある。「現状に対する批判力」は必要であり、重要であるが、これに偏ってはならない。むしろ、我々が目指すべきは構想力「間違った現状を超える、まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力」にある。

幾つかの具体例を挙げれば、日本国憲法第九条は世界に誇るべき、素晴らしい構想力の産物であるし、あらゆる核エネルギーの利用(核兵器は言うまでもないし、平和利用と称する原発も当然)とは断乎訣別すべきだ、というのは構想力に基づく当然の帰結と言えよう。
単なる現状批判は政治家や官僚に任せて置けばよい。前述の「新政府」を樹立したアーティスト坂口君の表現を借りれば、「アートはぎりぎりの本気」だから、本会では単に過去や現状を論じ、批判することだけにウェイトを置くのではなく、未来の人類が目指すべき理念を構想力をもってぎりぎりのレベルまで思考することを、本来目的とすべきであると信ずるので、今後は更に、このレールから外れないように意識して会を進める方針を改めて、ここに確認して置きたい。

9月例会においては、次のような慄然とせざるを得ない日本の現状に目を向けたい。

(1) 【日本は終わった】 英インディペンデント紙(The Independent) http://www.independent.co.uk/news/world/asia/the-explosive-truth-behind-fukushimas-meltdown-2338819.html

8月17日の英インディペンデント紙は、福島原発事故を取り上げ「原発事故は日本政府が嘘をつく構造 」「近代日本の終焉」「チェルノブイリより遥かに酷い」と論評した。

(2)雑誌ニューヨーカー(The Newyorker) http://www.newyorker.com/reporting/2011/03/28/110328fa_fact_osnos によれば、我が国では日本政府(国会を含む)、官僚機構および経済的利益集団(たとえば、電力会社)のみならず、テレビ、新聞などの報道機関まで三位一体ならぬ四位一体化された「Nuclear Mafia=核マフィア」国家が構成され、それによって日本は運営されている、異常な国家というレッテルが貼られ、日本という国は先進国家から脱落する、と断じられている。

多くの日本国民は、このような外国メディアによる報道の存在すら気付いていないであろう。フリージャーナリスト上杉 隆氏に依れば、今や日本のジャーナリズムは、大手メディアのみで構成される記者クラブの護送船団方式に埋没し、ジャーナリズム本来の使命を果たそうというジャーナリストが存在しないばかりか、ジャーナリズムの王道を貫こうと孤軍奮闘するフリージャーナリストの足を引っ張り、その活動を妨害したりする、救い難い状況にあると言う。

約70年前に日本を荒廃に導いた大本営発表の嘘で固められた情報を利用して、日本国民300数十万人を殺し、日本の国土を破壊し尽くした愚かな国家指導者たち(=機能不全の国家)と共にジャーナリズムの使命を放棄した報道陣の、当時の姿を髣髴させるものである。

筆者は<一日一書>(七十二)「大日本帝国 大本営」中で、日本人は70年前の惨憺たる歴史から何も学んで来なかったことを指摘したが、上杉氏は今後の日本について、こう述べている。「この儘では、日本は終わりで、70年後に再び失われた歳月の大損失を思い知らされ、何も変革して来なかったことに思い至るであろう」と。

以上に関連する資料はYouTubeやUstreamの映像も含め豊富に存在するので、出来る範囲で紹介したい。

例会場所、日時は下記の通り。

       場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
        日時:9月12日(月)午後1時30分より
TEL: 073-482-1899

更に友人よりの下掲資料を添付して置く。この他にも京都大学助教授小出裕章氏(参議院行政監視委員会) http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65737210.html や講演会 『原爆・原発と憲法9条』 DVD版 http://www.ustream.tv/recorded/16262497 のように良心ある学者は、勇気を持って発言して居る。我々は明晰にその情報を取捨し、考え、行動する必要があると信じる。
添付資料: 東京大学児玉龍彦教授、怒りの発言(厚生労働委員会での発言要旨) http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65754131.html

2011年8月19日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」8月例会案内


 立秋も疾うに過ぎておりますが、未だに日本全国暑い日が続いて居ります。お健やかにお過ごしでしょうか?お伺い申し上げます。唯、最近明け方の気温には微妙な変化の兆しも現れているように感じます。

 ところで「詩をきっかけとして考える会」8月例会日程も下記ご案内の通り迫って参りましたので、急ぎ連絡申し上げます。

 七月例会の出席者はK、N、S、TさんおよびJの5名。

 ディスカッションの内容は、沖縄在住の作家大城立裕氏のインタビュー「いま沖縄から考える」7月7日朝日新聞朝刊オピニオン欄中の発言『日本では原発は過疎地に集中させられてきました。事故の危険性を押しつけられたうえ、そこで生み出された電力は地元ではなく、東京や大阪など大都市で使われる。これは、米軍基地が沖縄に集中させられているのと同じ構造です。沖縄に基地の負担を一方的に押しつけ、日米安保の

恩恵は本土が享受する。(後略)』であり、これを中心テーマとして行った。

 私見としては最後の部分の「日米安保に、今現在果たして、どれほどの恩恵があるのか、日本が負っている負担の大きさから考えて、可成り疑問ではあるが、今や現状は、冷静にその利害得失を検討し、次の行動に進むべき時期に入っているものと考えられる。その他の発言内容は私の考えていた問題点と一致している。すなわち、日米安保のもたらす沖縄問題は、今回の福島原発事故と明瞭に連繋している。

 私はかねがね「国家」とは何か?何のために存在するのか?また、我が国では「国家」が期待される機能を果たし得ているのか?と考え続けて来た。明確な答えは依然として得られていないが、8月15日の敗戦記念日の前後には、今でも見落とされたり、知らされていなかった記録や事実が報告される。それらを踏まえて考えた結果、私なりの独断であるが、日本が国家(組織)としてどうにかその役割を果たし得たのは、明治維新政府が欧米列強が支配する世界に踏み出し、その不平等を試行錯誤しながら修正し続けた日清、日露戦争頃までではなかったか?と考えている。私が物心つき始める頃の日支事変(日中戦争)以降現在に至るまで、日本の国家は真面な組織としての機能を果たし来なかった。それには色々な原因があっただろう。たとえば、組織に関わった人々の能力欠如、組織固有の欠陥、組織を悪用する輩を放置した等々によって、現在のような機能不全に陥った。

 では、我々はこの国に生活する市民として、どうすべきか?を八月例会のテーマとしたい。
 参考となりそうな記事が朝日新聞朝刊8月16日の見出し”生きるための「新政府」”中にある。『原発事故を契機にした迷走が収まらぬ中央政府に愛想を尽かし、九州「西南」で「新政府」を立ち上げたアーティストがいる。避難民を受け入れ、福島県の子供達にサマースクールを用意。半年以内には格安の“団地”も実現させると、意気軒高だ。』

 ここに至る前段として、菅直人首相に対する批判に対し、「異議あり」と8月12日朝日新聞朝刊オピニオン欄中で意見を述べている学者国分功一郎氏の発言をみることにしよう。「場当たり的、思いつきだけの菅さんが何か制度を提唱したという記憶がありません」という悪意に満ちた記者の質問に対し、国分氏は「そうでしょうか。就任当初『最小不幸社会』を実現すると言ってました。これは社会に付きまとう不幸、貧困や病苦などをうまくみんなで分け合う制度を整えようという考えです。辞任3条件の一つに掲げた再生エネルギー特別措置法案も、自然エネルギーの普及という目標を掲げた上で、実現を促す制度を導入しようという考えです」

 更に国分氏は「日本は民主主義の社会だということになっています。しかし実際には、たまに部分的に立法権に関わることができるだけ、つまり数年に一度、選挙への参加が許されているだけです。これのどこが民主主義なのか」、また「(前略)立法権ばかりが注目されたためにないがしろにされてきた領域がある。私たちが生活している中で最も身近な行政権力です。市が保育園を作る。県が道路を造る。私たちの生活に直結しています」「しかし行政権の執行に対し、私たちはまったく参加の機会がありません。何ら拘束力をもたないパブリックコメントをたまに出せる程度です。民主主義と言うなら、行政権に市民が公式に関われる制度をきちんとつくっていくべきでないでしょうか」
 
 「(前略)これからは再生可能エネルギーの普及が必要だと一人一人が思っていても、その気持ちを束ねて結果を出すには膨大な労力が必要です。しかし、そうした気持ちをうまく後押しする制度が作られれば、社会全体で結果を出していける」

 総選挙があったとしても、どの政党所属の議員にも投票するに足る人物は不在、という有権者が大半を占める現状は将に国家という組織の機能不全を有権者が明確に認め始めている証拠であろう。

 私は前述の、国レベルではない、生活に直結した行政への、実質的な市民参加こそ民主的に市民の声を反映させる有効な手段である、と考える。

 国家という、機能不全で、或る意味ではいかがわしい組織を温存し続けるならば、市民の生活に直結しない視点から、たとえば大局的見地と称し、一部に犠牲を押しつけたまま、利益に見えるサイドにだけ脚光を浴びせて、誤魔化し、密かに権力や利権の甘い汁を吸おうと群がる輩を排除することなど到底期待できない。

 中東や中国(やゝ違った形ではあるが)で、Twitter革命が進行している。日本ではTwitterにより、それらの国のように爆発的な変化が生ずる、という安易な見方は直ちには出来ないであろう。しかし、情報源を国内のテレビや新聞だけに求めるのではない、これまでと異なったうねりが密かに、しかし根強く胎動し始めて居るのを覚える。

 別な話題として、本例会にも時々顔を見せるY.A.さんが論潮通信第4号に寄稿された「潮風の記憶」を紹介したい、と考えコピーを持参する。印象深い内容で、「言葉」についての真剣な思いが綴られている。


例会場所、日時は下記の通り。

       場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
        日時:8月23日(火)午後1時30分より

               「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

2011年8月15日月曜日

<一日一書>(65)「人(民族)と国家」


『今日は日曜日。
天気は晴れ、午後になって風吹く。』


さて、今日の話を始めよう。

『盆を過ぎると、クラゲが出始める』という言い伝えは、例年の経験からして、先ず当たっている。大分前のことだが、クラゲに顔面を激しくやられて酷い目にあったことがある。腫れて熱を持った水ぶくれも長男の結婚披露宴までには、どうやら落ち着くか、と思えたが、実際には癒えた傷痕に現れた、太い瘡蓋の痕が、恰も出入りで負傷したヤクザの顔のように残って、誠に往生したことがある。

それで、今日が最後になるか?とも思って、夕方には結構風が出て来たが、海に入り、いつものようにテトラポッドの直前までを往復して帰って来た。

今夜は二つのドキュメンタリーを観た。私は学者ではないので、文献を挙げて綿密に論ずることは出来ないが、今まで見聞し、経験した資料や情報に基づいて自分なりに、直感的に考えて来ている。

ドキュメンタリーの一は「圓の戦争」、そして二は「砂漠の中の日本庭園」である。これら二作品からの印象は、私が常々考え続けていることを裏付けてくれた。

これまで、ずっと、私には「国家」というものは、何処かいかがわしいもの、というイメージしかない。前者のドキュメンタリーは将にそれを示している。軍部が中国で戦争を継続し続けるために、大手銀行を巻き込んで、他人(他国)の褌で相撲を取った、という一般庶民には知らされなかった狡猾で、無責任な行動。つまり、戦争に必要な軍費を戦地で調達し続けるという暴挙。その国の経済が破綻しようが、一向に顧みることなく突き進み、挙句の果てには膨大な借金を自国(つまり、日本の一般市民)に破廉恥にも未だに残し、勝手に破滅したという事実。

個人や民間の思惑では、実現出来ないことを、国家という枠組み(組織)を作り、一握りの権力者がそれを利用(悪用)して、破廉恥で無謀な行動に突っ走る。そのような場合に、国家は、本来実現し得ない、あるいは実現させてはならない役割を果たすためだけに存在する組織(悪)、としか考えられないし、その組織を悪用する者にとって更に好都合であるのは、失敗の原因を実際の関係者にではなく、組織の故とする隠れ蓑として利用することさえ出来ることだ。

後者の記録は、戦時中、自由を標榜する米国で、日系人という事実だけで砂漠の中の強制収容所に隔離された人達(個人)の抵抗と矜恃の真実である。これを観て、人を支えるのは、決して国家などではない、と改めて確信させられた。財産も自由も理不尽に、一方的奪われた日系人たちが、その密かな抵抗の気持ちと、共通の連帯感を持って不幸に立ち向かう誇りの基(もとい)となったものは何か?それは「文化」である。日系人たちは砂漠の中の殺伐とした収容所の中に、日本文化の心を伝える日本庭園を建設した、という。

これは、国家とは無関係である。民族、日本民族としての誇り、民族が共通に所有して来た文化の発現を試み、それを実現させたことによって、自信、誇り、そして安らぎを得ることが出来た、ということだ。

私は日本の国家は今でも信用出来ない、と略確信しているが、一方で、自分が日本人であることには誇りを持っている。それは、世界中に誇ることの出来る日本文化の高い価値の故である。これらを創出し、築き上げ、伝承してきた日本民族の優れた資質には胸を張って良いし、その末席を汚す一員であろうとも、日本民族の一人であることが、私の生き甲斐の根底にある。

2011年8月11日木曜日

<一日一書>(62)「40度 乃至 数千度」



『今日は木曜日。
天気は晴れ、暑さ衰える気配見せず。』


さて、今日の話を始めよう。

日本各地で30度を超える暑さが話題となり、毎日何人かの人々が熱中症で死亡、と報道されている。家でもガラス戸は毎日開け放したまま、殆ど裸同然で就寝しているが、明け方の冷え込みさえ、ここ数日は感じたことがない。明け方から既にむっとした暑気に満たされている。

この時期の、この暑さを体験する度に私の記憶は敗色濃厚だった1945年の記憶と連動する。8月15日の敗戦の日も、疎開先の紀南の空は青く晴れ渡り、暑い一日であった。広島と長崎に新型爆弾が投下され、一般市民まで被害を受けたことは、制約された報道によって承知していたが、その実態については全く識らなかった。意識的に隠蔽されていたわけだから一般人は知りようもなかった。

それ故、今、TV報道で40度近い気温で大騒ぎしている人々をみていると、66年前、何の落ち度もないのに、無防備なまま、不意に数千度の熱で焼かれる破目となった日本人の、熱さや苦痛、恐怖は如何許りだったろうか?と想像すると、今でも、その非人道的な所行に対し怒りを抑えることが出来ない。

誰が如何なる理屈を付けようが、人間が他者に対して採ることを許容される手段でないことは、論を俟つまでもなく、明々白々の真実である。

原子爆弾の効果、人体に及ぼす悪影響についてのデータや情報をひたすら隠蔽してきた米国の指導者層や、そこから利益を得て来た軍部や産業界の身勝手さから、一般市民が正確な情報を入手できなかったことが最大の不幸であり、また問題である。

原子核分裂や核融合反応からのエネルギーを利用しようとする試み自体が、人間の制御可能範囲を超える所行である、という冷静かつ正確な判断と理解があれば、武器としての利用は無論であるが、たとえ平和利用と称するオブラートを被せようが、その利用は許されないことが、はっきりしている。

『被爆者を絶対に作らない』というシンプルで、嘘のない原点から、全ては出発すべきである。電力が不足しそうなら、余分な使用は停止する、必要なものは出来るだけ節約して、やりくりする。足りない分は工夫し、努力して別なソースを検討し、実践する。「費用がかさむの、かさまないのと議論する暇があるなら、先ずスタートして一からコストダウンの努力を徹底すべきだ」そもそも、この種の技は日本人の最も得意とするところではないか?先頭を走れば、この面で、世界のリーダーたり得る筈だ。

愚かで、想像力乏しく、現状を見通す眼力の無い人々(日本人ですら、この中に含まれるのは哀しい)が、未だに核兵器による「抑止力」などという鰯の頭ほどの迷妄から抜け出せないで居るのを視るのは、誠に情けない限りだ!これらの人々の脳みそがどのように構築されているのか?解剖学的に観察可能なら視てみたいものだ。

そもそも人類にとって危険で、実質的に使用できないものを保持して、どうしようというのだ?製造するにも無駄で高額な費用が掛かる上、安全(完全な安全はあり得ないこともはっきりしているが)に維持保管するために更に無用な費用を要し、その上、使用せずに老朽化しても、取出した核物質を安全に廃棄する方法や場所さえ、無いこともはっきりしている。

仮に、理性の欠如した国が核兵器を使用して他国を侵略した、としよう。戦勝したとしても、その国は、残留放射能に満ち溢れた敗戦国を駐留統治することは無論、放射能まみれの財物や生産物を収奪、利用することさえ出来ないのは、既に明白である。もし、近隣の国を侵略した場合は、自国に放射能が滞留する危険性も十分にあり得る。それに対し、良識を留める国々はこぞって当該国を非難するであろう。また、十分な効果について不確定要素が存在しようが、しまいが、一致して経済制裁が発動される可能性も高い筈だ。結果の明らかな、このような事態の何処に有用な効果やメリットがあるというのだ?

核抑止論者は、こんな単純なシナリオさえ、想像できないのだろうか?愚かにも越権行為で職を喪った自衛官や、ろくな対抗馬が居ない故で居座り続ける老耄知事の妄言に惑わされている日本人が未だに存在することは、筆者の理解を超える。

40度どころではない、数千度の人工の火に焼き殺された数十万の人々の死を犬死にとして放置したままにしようというのか!人間として許し難い無理解と無知という以外に言葉が見つからない。

2011年8月5日金曜日

<一日一書>(56)「軍神 山本五十六元帥」



『今日は金曜日。
天気は曇りのち雨。』


さて、今日の話を始めよう。

大型の台風が沖縄方面に近付いているという。その影響で今日は朝から曇っているので、陽射しが強すぎず、散歩には都合がよい。
遙か沖合の和歌浦湾内には、避難のため、大型の貨物船が数多く停泊している。

本書のシリアルNo.を入れてみて、直ぐに気付いた。多分、私の年代前後の人々なら同感して貰えるだろうが、56という漢字表記をした途端に山本五十六(やまもと・いそろく)元帥を想起した。ハワイ真珠湾攻撃を成功させ、最後は前線視察中、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で、情報を傍受されて、米軍機に撃墜され、戦死した日本海軍提督だ。

当時、私は国民学校(今の小学校)四年生、大東亜戦争(太平洋戦争)開始から一年半くらい経過したころで、戦争推移の実態は、国民が大本営発表により聞かされていた内容とは異なり、ハーバード大にも留学した山本五十六が予言したとおり、ネガティブに転じ始めて居た。
連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死は日本国民に大きな衝撃を与え、その後の、坂道を転がり落ちる日本を、将に象徴する事態であった。

昭和十八年六月五日の日比谷公園での国葬に合わせ、私が通っていた東京市豊島区立長崎第二国民学校でも、山本五十六元帥の追悼式が執り行われ、選ばれて、私が書いた追悼作文を全校生徒数百名の前で朗読した。何を書いたか、定かではない。が、当然、国や学校関係者が求めるような内容、『軍神となって国を護る山本五十六元帥の後に続き、一億一丸となり、我々少国民も共に大東亜共栄圏の繁栄のため、鬼畜米英と決死の覚悟で戦いましょう!』

多分、そんな内容だったに違いない。それ以外のことを書いても発表の機会などある筈がない、訳だから。

そう言った時代を識らずに育った方々が大勢を占めるようになった現在、上記のような話を聞いて、どう思われるのだろう?

歴史に"If"は禁物だと言われるが、あの時、もっとこうして置けば、戦争にも勝てたかも知れないだの、また、今頃になっても、作る能力も経済力もあるのだから、核兵器を持てばよい等々の寝言を未だに口にするピント外れ、時代遅れの日本人が存在するということが、私には到底理解出来ない。

戦争は、力が強いだけで無知な国の、単なる人殺しである。殺されるのは、いつでも善良で、罪のない庶民たち、最も被害を受けるのは、何時の世でも幼く、無力な子供たち、女、老人たちである。尤も、その前に青年たちも無残に抹殺され、やがて壮年の男たちもそれに続くことになるわけだが…。

武器を持って戦線で体験したことはないが、いわゆる銃後で、平時なら受けるいわれのない犠牲を強いられたという意味では、戦争を体験した一人として言わせて貰おう。

「戦争で得るものなど何も無い。戦争は人間を抹殺するだけだ!」

「誰が何と言おうが、如何なる戦争にも絶対反対だ!どんな戦争であっても、結果的に人殺しをすることは間違いない」

「だから、あなたが本当に、人間として生きようとするなら、(他人を殺さず、他人からも殺されないように)あらゆる戦争を、この世界から排除すべきだ!それしか道は無い」


 そして明日は広島「原爆の日」だ。

核兵器は言うまでもないが、たとえ原子力発電であっても、人智で制御不能な自然の摂理に、ヒトは手を染めてはならない。謙虚であるべきだ、ヒトも単に自然の一部に過ぎないのだから。