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2011年9月16日金曜日

<一日一書>(九十七)「何故、真正面から向き合わないのか?」


『今日は木曜日。
天気は晴れ、午後から夜に掛け湿度高し。』
 
 さて、今日の話を始めよう。

非常に零細ながら、SOHOとして技術翻訳業を長年営為して来た手前、当然事務消耗品も必要なので、大量の購入ではないにしろ従来ASKULアスクル・インターネットショップというWeb通販で問題なく商品を調達して来た。

しかしながら、長引く不況で、小なりと言えども自営業者として経費節減に努めねばならず、最近は当方自体が開店休業状態で、売上げも大幅減で消耗品の使用、購入も手控えて来たため、具体的な数字は掴んでいないが、少なからぬ期間に亘りアスクルとは取引が無かった。

久しぶりに、コピー、印刷用紙も底を尽きそうになったので、注文しようと思い、従来何の問題も生じなかったID、PASSWORDでログインしようとしたところ、「只今お客様のご注文をお受けできない状態となっております」というメッセージが示され、ログインを拒否された。

このような場合、人はどういう印象を抱くだろうか?私は次のように感じた。『このID、PASSWORDに関し、何か不都合、不正使用などがあったため、ログイン出来ないように設定変更されたのであろう』と。

しかし、暫く経って、それなら当然、私に直接確認の問い合わせがあって然るべきであろう。その事実が無かった訳だから、他に想像できるのは、一定期間に亘り、注文が途絶えたため、そのような取引先を購買者名簿から外そうという、はっきりした意図に基づく処理結果なのであろう。

どういう販売戦略を採ろうが、それはその会社の自由であり、そのこと自体に何ら問題は無い。ただ、処理方法としては、非常に不親切である上、相手方に少なからず不愉快な思いをさせたことは間違いない。その辺のところが事業者ASKULに正しく理解出来ているのだろうか?甚だ疑問である。

今や日本のみならず、世界をも揺るがせている不祥事、東京電力福島原発事故における東電と国の対応で、指摘されている最大の問題点は、起こっている状況を正しく伝え、人々の理解を得ようとする努力を怠り、それどころか説明責任を果たさず、人々に疑心暗鬼を抱かせるような対応を取り続けている事故企業の体質と、それを適切に指導、監督できない(或いは意図的にしない)国の能力とその対応態度にある。

ASKULの件は、それ程、シリアスかつ致命的な問題とは違うだろう、という言い分もあるかも知れない。しかし、良く考えてみて欲しい。根は同質である。

それは、私のTwitter上からの問い合わせ「景気が悪く暫く購入しなかったが、消耗品が必要となり、以前問題なく使用できたID、PASSWORDでログインを試みたところ、「注文をお受けできない状態となっております」と拒否された。どういう意味か?別に不義理の覚えもないが。」に対するアスクルからの、次の回答で明瞭である。

「お問い合わせの件でございますが、お知らせいただきましたIDよりご登録状況をお調べいたしましたところ、大変恐縮でございますが、改めてアスクルの新規法人登録のお申し込みをいただく必要がございました。

お手数ではございますが、下記URLより新規法人様登録のお手続きをいただきますよう、お願い申し上げます。

<アスクル・インターネットショップ>」というものである。

はっきり言って、慇懃無礼な文言は羅列されているが、この返事は内容的に回答の体を成していない。つまり、私からの質問や推測に対しては、どうしてそうなったか?当社としてはこのような理由で、斯く斯く然々の処置を執りました。というような説明は一切為されず、言ってみれば、そこに何らの回答も無い訳で、ただ今後取引の意思があるなら「新たに登録手続きせよ」という伝達事項のみが示されているに過ぎない。

特にアスクルに対し、含むところがある訳ではない。しかし、私の考えでは、販売方針として一定期間取引の無かった場合は「HPを閉じることにします」という注意を事前に徹底するなり、一旦閉じる際は、その旨簡単に相手方に通知する、というような手段を採った方が相手の理解も得やすいし、更に相手の立場を考慮すれば、妙な疑心暗鬼を生じさせたりすることのない「親切」であり、相手方に対し、無断で一方的に処置して、その疑問の解明を求める問い合わせに対しても、実質的な回答を怠り、「(取引継続を望むなら)改めて新規登録の必要がある」というメッセージを一方的に伝達するのみでは、到底誠意ある対応とは言い難い。それは、回答ではなく、説明でもなく、問題の本質をはぐらかした上、その場から逃れようとする意思の表れ、という点で一連の福島原発事故と同質の問題を含んでいる、と結論されても致し方あるまい。


 この国の企業は規模の大小に関わりなく、延いては人々もまた、問題に真っ正面から立ち向かうという姿勢をいつしか喪失してしまった、というのだろうか?

2011年9月3日土曜日

<一日一書>(八十五)「亡国の民」


『今日は土曜日。
天気は雨、風ときに強し。』


さて、今日の話を始めよう。

昨日書いた<一日一書>(八十四)「100,000年後の安全」を「詩をきっかけとして考える会」のメンバーを中心として、私の友人達に発信する際の本文メッセージを準備してみようと思う。ドキュメンタリー上映の広報となる<一日一書>(八十四)の方は長文となったので、文書として本文メッセージ・メールに添付することにしよう。

高知県に台風12号が上陸したと、TVが報じておりました。台風の影響は広い範囲に及びますので、皆さまのお住まいの地でも何らかの影響はあると思いますが、如何でしょう、お伺い致します。私が住んでおります場所は和歌浦湾口に面しておりますが、ここは台風時には中型の貨物船が避難のため停泊するような所なので、防潮堤上から先刻満潮時に視認した際は雲か霧に覆われて明瞭に観察することは出来ませんでしたが、遙か沖合に二、三隻の船影を認めることが出来、また海浜に特別異常な様子も見られませんでした。

さて、添付文書を発信する私の今の心境を成る可く簡単に述べてみたい、と思います。

今年7月私は満78歳となりました。大東亜(太平洋)戦争に敗戦したとき、私は12歳、国民学校6年生で東京から疎開して当時の和歌山県西牟婁郡江住村の江住国民学校に通っておりました。
多分、その年の暮れ、もしくは年明け早々(昭和21年)に、母の強いすすめで東京の中学校を受験すべく和歌山県から単身で東京へ向かい、当時家のあった豊島区要町に辿り着くため、最寄りの省線(国鉄、現在のJR)池袋駅の西口に降り立ちました。
久しぶりの懐かしい池袋駅前の景色を目にしたとき、呆然と立ち尽くしたことを思い出します。記憶にあった建物は完全に焼失していました。目の前にあったのは、焼け焦げて、それも一部だけ残った真っ黒な柱や、全て真っ黒になった何かの枠とかそんな物だけが散在しているだけで、その他は賑やかな街の建物がすっかり無くなってしまった後の、妙にあっけらかんと拡がる住宅地に通ずる道の周りに現出した空間が見えるばかりでした。

虚脱感は周りにも満ち溢れていたようですが、それでも人々は動き回っていた、という印象があります。それから66年を経て今回大震災を経験しました。大災害であることを真摯に受け止めても、これだけなら敗戦時の状況と比較して論じることは可能だと思います。しかし、東京電力は福島原子力発電所で大事故を発生させました。この事態を加味すれば、現状は敗戦時とは比較にならぬ程深刻だ、と確信しております。私情を率直に述べれば、今や日本は絶望的な状況にあります。そして、このような私の発言を多少なりとも訝しく思われる方が少なく無いであろうと推察される現実こそ、私が絶望的だ、と申し上げる根拠なのです。

起こっていることの正確な事態を自らで把握すること、その事態を認識した上で、それに警鐘を鳴らす専門家の意見を白紙の状態で聴き、自ら考え、理解し、その為に自分はどう行動すべきか?を定めて具体的な一歩を踏み出すこと、今後の進展はそれに尽きる、と確信します。皆さん一人一人の運命は自分が握っていることをお忘れになりませんように。

余り繰り返しはしたくありませんが、今の日本政府、与野党関係なく多くの政治家や、企業家、特に原子力関係者(一部の科学者、専門家を除く)およびマスコミ(大手新聞、TV)は組織的に戦時中の大本営状態を現出させ、海外からの情報を遮断し、国民を欺瞞情報によって誘導することに努めるばかりです。

現状は敗戦時の状態を遙かに超える絶望的な有様であると断ずる所以です。

(これ以上、何も聞きたくないという方は、添付文書を参照する必要はありません。もし、そうでない方は是非ご参照下さい。)

<一日一書>(八十四)「100,000年後の安全」


『今日は金曜日。
天気は雨、台風12号の影響。』


さて、今日の話を始めよう。

台風接近で気圧が低下しているが、それだけで憂鬱な気分に落ち込んでいる訳ではない。東電原発事故関連の報道に関し、内外メディアの伝える情報内容の落差に愕然とせざるを得ないからだ。

私はある意味で鎖国主義者なのだが、こと原発関連情報、特にこの度の福島を初めとする原発事故関連情報に関しては、今の日本のような鎖国状態には断乎として反対する。ことは人間の健康や人命に関する問題である。海外の科学者やジャーナリストの意見を聴いていると、日本人の今置かれている状況は危機的状況と言っても決して過言ではない。

事故の発生した原子力発電所から半径何キロの範囲云々とか、そう言った類の話ではない。福島原子力発電所からどのくらい離れていようが、今や放射能の影響から逃れることは出来ない。国内産の農作物はどんなものであっても、いずれ放射性物質の影響が何らかの形で、全ての産物に及ぶことは間違いない。特に危険なのは魚介類であろう。こちらは回遊するものも多いだけに、産地が何処であるから、という判定は凡そナンセンスである。そして、かく申す私もこれらの食品を口にしなくては生きて行けないのが現実であり、これを読んで下さるあなたも同じで、日本から成る可く離れた海外に移住し、日本産の食品や回遊魚などの魚介類を長期間に亘って口にしないようにしない限り、逃れることは出来ぬ運命にある。

それどころか、日本から遠く離れた米国西海岸でも偏西風に乗って運ばれたプルトニウム粒子が平均5個/1日当たり飛散しており、この粒子は髪の毛の切断面より小さいので、人は否応なく体内に吸引してしまうと言う。4月のデータでは東京でもプルトニウム粒子が10個/1日飛散していた、という。この粒子は野菜、特に葉物などの表面に付着するので、野菜はよく水洗いすべきだ、とのことで、日本の放射能状態はチェルノブイルの倍くらいの劣悪状態にあると米国Chief Nuclear EngineerのArnie GundersenはCNNニュースの中で述べている。

プルトニウム239(半減期2万5千年程度)の漏出、飛散について、日本は政府を始め関連する東電や財界、原発推進、維持派の関係者は直(ひた)隠しにしようと懸命で、この関連情報は殆ど国内で観ることが出来ないのに対し、海外ではこれが大問題となっており、それに関する情報開示に消極的、秘密主義の日本政府や東京電力の対応に疑問と批判が湧き起こっている。

海外からの日本政府の国民に対する対応は犯罪的ですらあるというドイツTVの報道以外にも、私が観たものだけでも英国、オーストラリア、カナダ等からの日本人の置かれた悲劇的な状況を伝える報道には事欠かない。それに対し、国内向けの統制された情報だけを信じている人々を見聞きしていると、絶望的な気分となる。

だから、次のような案内をするのも、或る意味で無意味とも言えるのだが、それでもやって置こう。

来る9月9日(金)18時30分より(開場18時00分)和歌山市内プラザホープでドキュメンタリー「100,000年後の安全」が、県平和フォーラム(℡073-425-4180)主催で上映される(入場協力券500円)。

ドキュメンタリーの内容は次のように紹介されている。
「原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場が、フィンランドで世界初めて建設中。100年分の廃棄物を、無害化するとして10万年後まで地下500メートルで密閉管理する計画。施設内の映像や科学者へのインタビューを通じ、途方もない未来への安全と責任を問う」

確認出来た訳ではないが、この紹介文からして私は以前観たNHKの世界のドキュメンタリーと同じ内容だ、と判断している。もし、同じものなら、この関係の映像の中では、毎月有志と共に続けている「詩をきっかけとして考える会」の仲間に私が一番に推奨して、観て貰いたいとかねがね考えていた作品なのである。

この作品には、色々と考えるべき問題が提示されている。先ず、我々が既に手を染めてしまった原子力(核エネルギー)利用から出る廃棄物を無害化できるとしても10万年も掛かる、という専門家の見解。

考えても見て欲しい。我々人類がいわゆる歴史を文字で記録できるようになってから現在までの時間はたかだか数千年である。それでも個人にとっては気の遠くなるような時間である。有史以来の年月をもう一度繰り返したとしてやっと1万年。その10倍という無限に近い時間は、果たして人間の触れることが許される範囲だろうか?私はどちらかと言えば唯物論者だが、このスパンは、人間の関わる領域ではなく、神あるいは神でなくても畏敬すべき大自然の犯してはならぬ領域であると信ずるのだが…。

また、今を生きる人類の一員として、10万年にも及ぶ期間中に生まれて来て死んで行く、我々の子孫である人類に、このような人智に余る汚染物質を、目先の自分勝手なエネルギー欲しさという理由だけで、果たして押しつけることが許されるのだろうか、また、そんな権利どこにあるというのだろうか?

このドキュメンタリーを観たとき、この作品は色々な角度からの問題を我々に突きつけている、と感じた。それは科学的な考え方だけではなく、哲学的、倫理的、宗教的、歴史的、地理的、経済的、文化的などあらゆる立場から考えてみるべき問題を含んでいる。

私の仲間には是非観て貰いたいし、自らに関わる問題は自ら考えて判断したい、と思われる方には是非お勧めしたい。