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2012年2月14日火曜日

「詩をきっかけとして考える会」2月例会案内


「詩をきっかけとして考える会」2月例会の案内です。
実は下掲の文章を前置きとしよう、としましたが、余りにも長くなったので、読み辛い人には、この前段だけで用が足りるようにしました。後段は関心のある方に読んで頂ければ幸いです。


1月例会では、出席メンバー3名(N、T氏およびJ)による協議の結果、今年度の大目標として、「個人と国家」、特に「国」とは何か?を取り上げることに決定した。ただ、このテーマは大き過ぎ、また検討範囲が余りにも広範に亘ると考えられ、その取り上げ方やアプローチの仕方などにも工夫を要するものと想像される。そこで、コーディネータJの判断で、先ず、次回例会には長保寺住職瑞樹正哲氏を招き、彼のブログ「鐘声」でも紹介されている”Quantum Sense”という考え方を紹介して頂くことにした。今回の企画は、この考え方の是非を論ずるものでは無いことを先ず理解して頂く必要がある。つまり、飽くまで、この思考方法が今後の大テーマ議論の際、アプローチの一方策として役立つかも知れないというJの勝手な推定に基づくものである。


したがって、今回はいつものようなフリートーク、フリーディスカッションの形式を採らず、参加メンバーからの質問も講演者により提示された内容を理解するためのものに限ることにする。言う迄も無いが、これは、当方からお願いした講演者に対し、最低守るべきルールと考えるからである。


それで、特に2月例会は、この方針を了承された方々のみに参加して頂きたい。いつものようなフリーディスカッションを望まれる方は3月例会以降のご参加を検討されたい。


もし、時間に余裕があれば、参加メンバー全員から「日本人のアイデンティティーとは何か?」を伺いたい。実は、この問いは1月例会でN氏より発せられたものであるが、私(J)自身は上手く答えることが出来なかった。(注:もし、参加メンバーの方で国籍が日本以外の方、たとえば、中国籍の方が居られた場合、その方は「中国人の…」また、韓国籍の方は「韓国人のアイデンティティーとは何か?」を教えて頂きたい。)


2月例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
     日時:2月28日(火)午後1時30分より
              TEL: 073-482-1899


<前置きとして準備した部分>

今朝(2月12日)の朝日新聞朝刊書籍広告欄に次のような本の広告を見付けた。『私たちは、原発を止めるには 日本を変えなければ ならないと思っています。』インタヴュー集とあり、上杉隆/小出裕章/古賀茂明/坂本龍一/高橋源一郎/他の方々の氏名が挙げられている。その隣の広告タイトルは次の通りである。『99%の反乱』、サブタイトルは”ウォール街占拠運動のとらえ方”とあり、内容紹介の一部は「2011年9月、肥え太った1%のスーパーリッチに対して、99%側のユニークな「異議申立て」が開始された、とある。


別なページの書籍広告欄には、「第二のフクシマ、日本滅亡」広瀬隆著の書籍広告が載せられ、サブタイトルや紹介文は次のようになっている。「福島第一原発事故は収束」だって?ふざけるな!!”放出され続ける放射能は、天文学的な量。全原発即時廃炉を急げ!この国は死に至る…。”


また、読売新聞朝刊第一面には、理化学研究所理事長で、ノーベル化学賞受賞者でもある野依良治氏が、『地球を読む』というシリーズ欄でタイトル「科学の開国」の文章中サブタイトルに”国益を生む戦略と体制を”と記している。


更に、芥川賞、大江健三郎賞を受賞した作家中村文則氏の最近作「王国」第56頁には次のような文章がある。「…世界には、基本構図がある。富む者が富み続け、持っている者が持ち続けるという構図。…その構図には出入りはある。でもどのような国でも、そのようなシステムは構築されているんだ。国別というよりは、連動するように。…柔らかく、弾力を持つそういったシステムが」


上記全ての表現から、私は国というシステムの目指す方向、あるいは国の利益、いわゆる国益というものは必ずしも一般庶民の幸せや利益とは(少なくとも現在は)一致するものでは無い、と考えざるを得ない。


国を構成するのが、善良な一般市民だけであるならば、国益と庶民の利益は一致するはずだ。だが、実際には必ずしもそうなっては居ないことに気付いている人達も少なくない、と想像するのだが、如何であろう?


私の想像が完全に間違っていなければ、それは「国」と「個人」の関係の間の何処かにズレか誤りが存在するということであろう。


その存在するものが何であるのか?を突き止めるための前提として、先ず、「国」とは何か?「国家」とは何か?というところから考え始めるべきだろう。


しかし、人類がその進化の過程で「国」というもの策定し、そのシステムを運用し続けて来たのには、それなりの理由、意義、有用性などがあったからに違いない。それは一体いつ頃始まったことなのか?どのようなプロセスを経て今のような形態に立ち至ったのか?そして現在のような「国家」のあり方が一般市民の求めるシステムとして本当に適切かつ妥当に機能しているのだろうか?


考えなければならない問題は気の遠くなる程ある。また、考え方の方法論、アプローチの仕方も多々あると想像される。


直裁に申せば、私程度の思考能力を有する者が、浅学非才の知識で立ち向かおうとする試み自体、「風車に突進するドン・キホーテ」の姿を彷彿とさせるものであることを、自ら否定しない。


ましてや、福島原発大事故以来の、この国の大衆(適菜 収氏のいうB層か?)の有様を観たり、広瀬隆氏や熊本の小野・出来田医師の警告に耳を傾けようとしないB層の反応を知れば、今更「国家」と「個人」の問題などを考えたりしても、何らの益もなく、全く無意味かも知れない。


この状況は我が国だけの問題では無い。世界中の人類が自然界に元から存在する放射能の許容レベルを遙かに超えて、自らの存在を抹殺して余り有る放射能を人工的に増加させる方向に舵を取り続ける以上、人類の存続自体が問われているのに、その危機感をどれほどの数の人間が誤りなく感知しているであろうか?


同夜(2月12日)NHK Eテレで放映された「フォレストシンフォニー 森の生命の交響曲」の番組中で、坂本龍一氏も日本人は広島、長崎への原子爆弾投下によって、更に福島での原発事故により三度目の放射能被曝を受けた。だからこそ今、日本人がその体験を世界に向かって伝え、生き物の存在に重大な被害をもたらす原子力エネルギー利用を直ちに停止して、自然エネルギー活用の方向に舵を取り、森林を大事にして、森の生命と共生すべきことを熱く、提唱していた。


長い前置きとなったが、それでも私は2月例会で、予定通り「国とは何か?」そして同時に「個人の存在意義」をテーマとして取り上げることにしたい。


殆ど空しいと思われる活動を何故に続けるのか?それは、ただ記録のためである。20世紀の終わりから21世紀の初めに極東の日本という国に生息していた、名も無きホモ・サピエンスの一匹が、どのような考えで、その困難な時代を生きたか?をこうして文字で記録し、人類が絶滅した後にも奇跡的に資料として残れば、大変幸いであるし、また全てが喪失したとしても、それはそれで、その結果を、淡々と受け容れるのみである。「たった、それだけ?」と訊かれれば、「そう!」と答えるしかない。(文責:城 久道)