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2012年8月29日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内


「詩をきっかけとして考える会」9月例会
 常連メンバーKさんのご提案により8月を夏休みとしたのは、大正解であったようだ。この日中の暑さの中を出歩くというのは、高齢者ならずとも可成りの負担であろう。

 一方、それを良いことに、次回まで1ヶ月余りの余裕がある、と他のことにかまけていたら、あっという間に9月例会の期日が迫ってきたので、先ずそのご案内を…。

 7月例会の出席者はK、 Tの各氏とJの3名であった。会の次第は前回のご案内でも触れた、前田 保氏により書かれた国家についての試論テキストを利用することにし、専ら各項目の内容について逐一確認して、今後の論議の足掛かりとすることにした。9月例会では、各人が基本的に、この試論中のどの立場を取るか?また、必要があれば、それにどのような修正や変更を加えたいか等を中心にして話を進めたい。

 
 更に、Jのブログ(ぶらいおんの詞藻アンソロジー http://buraijoh.jimdo.com/ )でも紹介しているが、7月例会翌日にTさんと共に参加したTwit No Nukes 和歌山主催の「第一回原発さよなら行進」の報告(行進では、K弁護士、住基ネット訴訟で共闘したE.K.さん、バグースの元女性スタッフ(氏名不詳)等とも出会った)、それに加えて「子どもたちの未来と被ばくを考える会」主催、7月29日の安田節子氏の講演次第を、参加できなかったJに代わり出席されたTさんに簡単に紹介して貰いたい、と考えている。

 その他の計画中の活動予定についても、時間があったら取り上げたい(文責:城 久道)。

 9月例会は下記の日時、場所とする。(尚、土日、祭日に限り開放されている紀陽銀行の駐車場は利用出来ないので、車利用の方はご注意の程)

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 9月5日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

2012年7月16日月曜日

「詩をきっかけとして考える会」7月例会案内


 前回皆さんにお送りした6月例会案内第120615号の内容に触発された、と言って休刊中のPAM同人であり、大学の先生であるT.M.氏から国家について書いた試論が送られて来た。実証的裏付けを伴っていない場合もある、と断りはあるが、私の判断ではなかなか要領よく纏まっており、我々が勉強のため使用するテキストとしては却って適当であろうと考え、別に報告する7月8日の東京ミーティングで出会った際、利用の許可を求め、その後OKの返事もメールで既に得ている。

 更に、取り上げたいテーマの種はこの他にも色々とある。
二三の例を挙げると、☆長野県中川村議会6月定例会における、高橋昭夫議員からの「国旗と国歌について村長の認識は」という一般質問に対する曽我逸郎村長の答弁内容や☆和歌山市で活躍される金原弁護士の発行するメルマガ金原1000号到達記念号におけるテーマ「原発と憲法」である。そのメルマガ中には次のように述べられている。『このテーマはまさに、私が現在追いかけている2大テーマであることは、メルマガ読者の皆様にはご説明の必要もないでしょう。』とある。

 これらの内容は、それこそ私が考え続け、皆さん方と話し合い、
勉強し続けていることに全て重なり合う問題である。納得しうる答えなぞ出る筈の無い程大きな課題であろう。しかし、色々な考え方を提案するきっかけとは成り得る筈だし、それらを広く、分かり易く老若男女を問わず幅広く浸透させることに努力を傾け、更に願わくば若い、これからの世代の人々を触発させ、自分たちで考えるきっかけを与え得れば、望外の幸せだし、私の無謀な仕事にもなにがしかの意味が生ずることになるであろう。再刊予定のPAMの存在もその延長線上にある。

 11歳年長の先輩詩人山田 博氏を失った今、
私もこれから10年程掛けて自分なりの仕事の完結に向けて更に精進しようと心を新たにし、東京での更なる飛躍を念頭に置きつつ全エネルギーを傾注しようと密かな決意を抱いている。この会にも、また再刊PAMにも更に歯応えのある論客の現れることを期待したい。

 6月例会の出席者はK、H、
Tの各氏およびJの4名であった(文責:城 久道)。

 7月例会は下記の日時、場所とする。

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」
2階予約席
    日時: 7月21日(土)午後1時30分より
リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

2012年6月22日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」6月例会ご案内

 国家と個人の問題を考えて来たが、私の立つ基本的立場と異なる、
最初から国家あっての人生という考え方をする(もしくは、その考え方しか出来ない)人々、すなわち政治家、役人、大方の事業家、それらの組織、その中だけでしか生きて行けないと考える(もしくはその考え方しかしない、出来ない)人々とは、出発点から違うのだということが、今頃段々分って来た。

 国の役目というのは、一応国民の合意を取り纏め、
それを取り付けることだと言いながら、実際にそれを実現させる筈の政治家は一部の人々と結託して利益や利権を漁ろうとする、いかさまな奴ばらが殆どであり、役人はそれら、つまり本当は国民の総意であるべきだし、その筈であるアイテムについて、現実には一部の利益受益者の要求に応えるべく工夫して規制を掛けその規制を拠り所として事業や活動を展開して収益を上げる組織、そしてその組織を維持、継続させることにより雇用を創出し、その雇用によって生活を維持する大方の一般庶民から成り立っている、と言うことになるのであろう。

 従って、考え方として、
そのような概念を基底に置かない私のような立場は、一般的には、若しかすると、可成り違和感を生ずるものなのかも知れぬことにようやく気付き始めた。そういう自分は可成りオメデタイ部類の人間ということになるのか

 さて、5月例会は出席予定のK氏が現れず、
代わりにH氏が参加されて、出席者はT氏およびJを加え、合計3名。T、J両名の選んだ詩を朗読しつつ紹介した。ナーズム・ヒクメットは日本でも知られるヒロシマで被爆した七歳の女の子を題材とした「死んだ女の子」の他、米国によるビキニ環礁の水爆実験で被爆した福竜丸の乗組員をテーマとする「日本の漁夫」など早くから原水爆の被害について詩を書き、また反戦活動を続け、長らく投獄されていたトルコからロシアへ亡命し、彼の地で没した。被害を受け続けた日本人よりセンシティブに原水爆や延いては原子力エネルギー利用の危険性について発言し続けた。この日本で発生した原発事故の被害を識ったら彼は何と言うだろうか?

 5月例会新会場は、従来のように一室借り切りではないが、
アイルランド系のB.G.さえ気にしなければ、割合静かで私的にはギネスを愉しむことも出来、特別問題は無いと考える。

 そこで、6月例会は下記の日時、場所とする。


 テーマは特に提案が無ければ、
2012年5月28日毎日新聞夕刊に掲載された「九条の会」事務局長/東大大学院教授小森陽一氏の意見を紹介しながら話を展開したい。
 私見では現在日本が直面している諸問題は、
憲法九条に対する人々の見解を探ることによって殆ど説明を付けられる、と考えている。

 一方、今朝の朝日新聞朝刊”耕論”オピニオン欄タイトル「
再稼働、それでも」の下に音楽家坂本龍一氏の発言の出だしは、こうなっている。『原理や原則についてきちんと議論がされないまま、「論理」ではなく「空気」で物事が決まっていく。そんなこの国のありように、ずっと違和を感じてきました。』
 更に、その結びは、こうだ。『声を上げる。上げ続ける。
あきらめないで、がっかりしないで、根気よく。社会を変えるには結局、それしかないのだと思います。』

 これは将に私の考えを代弁してくれている。


   場所: 紀陽銀行本店裏「トリニティー&ユニティー」2階予約席
   日時: 5月26日(土)午後1時30分より
          「リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
           

2012年5月26日土曜日

「詩をきっかけとして考える会」5月例会開催場所およびテーマ



 前回の5月例会案内第120516号を補足する開催場所はトリニティー&ユニティー2階(Cafe&Pub)と決定しました。場所は雑賀町2番地(紀陽銀行本店駐車場真裏)です。

 会で取り上げるのは、先ずナーズム・ヒクメットの詩です。
各自が選んだ詩を紹介することにします。時間があれば、次は「がれき広域処理問題の背景」を追求してみたい、と思います。

5月例会場所、日時は下記の通り。


    場所: 紀陽銀行本店裏「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 5月26日(土)午後1時30分より
           「リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

「詩をきっかけとして考える会」5月例会案内


4月レポートの最後は次のように結ばれていた。

 すなわち、『5月の「詩をきっかけとして考える会
の日程案としては26日(土)もしくは19日(土)が挙がっているが、会の理念を正しく理解し得る方々のみの、ご意向次第でヴァンサンカンの会場予約を取ることにしたい。率直なご意見をお聞かせ願いたい。』

 これに対し、大分前からY.
T. ;
T.K.両氏から参加のご意向が伝えられていたにも拘わらず、正式な連絡の遅れたことを先ずお詫びし、差し迫った日程についてのお知らせを優先する。

 5月19日(土)は、コーディネータ城の仕事の都合上、
対応できなくなったので、日時は5月26日午後1時半開始とする。また、場所は少人数が予想されるので、紀陽銀行本店駐車場真裏の喫茶・レストラン"Unity & Trinity"もしくはフォルテ ワジマ真裏に位置する喫茶・レストラン”スイッチ”その他を考えているが、更に若干詰めるべき点があり、正式決定までもう少し時間を頂きたい。

 参加希望者はいつでも適当に出入りして頂くことは従来通り全く自
由であり、特別な制約は無い。ただ、改めてお願いして置きたいのは、参加される際は、事前に送信される「詩をきっかけとして考える会」のお知らせを読み通し、趣旨を了解した上で参加して頂きたい。城のお知らせやレポートが冗長となりがちで読み難ければお詫びせねばならないが、筆者としては注意点や事前に理解を得て置きたいポイントを網羅的に説明しようと努めているので、それが却って取付き難さとなっているのかも知れぬ。しかし、テーマーによってはディスカッションの際の事前ルールを定めて置かないと、限られた時間内では到底収拾がつかなくなるという事態が発生する、と考えた上、敢えて規制しているので、その表現趣旨や意味が理解しがたい場合は遠慮無くご指摘、あるいはお問い合わせを頂き、充分ご理解の上参加されたい。

 特別な条件や制約を設けない場合は、
従来のフリートーク形式で進行することになる。

 さて、5月例会ではトルコの亡命詩人ナーズム・
ヒクメットの作品を取り上げたい。映画”チェルノブイリ・ハート”の冒頭では、彼の「生きることについて」という詩が掲げられ、私はこの詩から強烈なインパクトを受けた(この作品は4月例会においてJが朗読した)。

 日本では「ヒクメット詩集」が中本信幸
編訳で出版されているが、
インターネット上や古書店以外では現在入手不可能と思われる。和歌山市民図書館には収蔵されている事を確認済みである(県立図書館は未調査だが、当然収蔵されているだろう)。
 幸い、土さんと城が各1冊ずつ所持しているので、
各自お気に入りの作品を何篇かずつ選び、これらを紹介し、選定した背景なども語り合うようにしたい。
 そこで、参加される方は成る可く事前にナーズム・
ヒクメットについての知識をインターネットなどで調べたり、望ましくは作品にも目を通した上でお出かけ願いたい。

 また、時間が許せば、池田こみち氏の、
いわゆる放射能がれき広域処理問題を論じた講演の内容をご紹介したい。これは場合により次回以降の例会で取り上げることを検討してもよい。

 それでは、場所については追ってご連絡することにし、
これを取り敢えずの5月例会案内とする。(文責:城 久道)

2012年4月11日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」4月例会報告


 先ず、和歌山市と海南市の境界に位置する「温山荘」に隣接する公園で30分遅れの花見の会を、Siさんによって用意されたおでん鍋を囲みながら開いた。空気はやゝ冷たかったものの、花は満開、予想的中の結果であった。隣のグループは「うたごえ九条の会」のメンバーで静岡から参加された女性シンガーを中心に合唱が流れていた。この会に出席されていた金原弁護士とも挨拶を交わし、「子どもたちの未来と被ばくを考える会」のチラシを当方メンバー全員が受け取った。その後、会場を温山荘園洋間に移し、K、H、N、Sa、Si、T氏、Jの7名で「個人(人間)と国家」のテーマについて専らJの見解を述べた。その前にH氏から温山荘海側の立地について或る歌人の詠んだ和歌の碑を何処に建立するかの検討の為されていることが報告された。引き続き、Tさんによりミニハープが演奏され、最後に即興演奏のBGの中、トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「生きることについて」がJの朗読で披露された。

この詩を朗読したのは、次のテーマ「人間と国家」の”人間”の本質は”生命”にあり、”いのち”は、この詩のように”生きる”ことに尽きる、と言うJの見解を具現する目的にあった。他方、少なくとも現存の国家は金そのものを象徴しており、その金も市場原理主義により暴走するままに、原子力エネルギーのように、人間の力では制御し得ない、という考えである。民主主義の模範国家を自負して居る米国の政治も政治家も金にまみれ ており、オバマ大統領がオサマビン・ラディン氏を裁判も無しに殺害し、「正義が執行された」と誇り、こうした公然たる国家による殺人が誇示され、また、それが米国市民に支持されたという事実を、更に米国議会におけるユダヤ資本のロビー活動故にイスラエルのパレスナチ人に対する理不尽な迫害が等閑視されている現実をどう捉えるべきか?

私人が人を殺せば殺人者になるが、戦争が最も代表的な形態であるように、国家が人を殺しても殺人とはならない、のは何故なのか?

ここで国家の執行する「死刑」について、日本は「先進国」の中で、死刑賛成者が突出して多いのは何故だろうか?日本人はそれ程国家の正義を信じているのだろうか?という問題が提起され、メンバー全員に「死刑制度」について賛成か反対かを問うた。反対はT、Jの2名。他の方々は全て条件付きで賛成、という結果であった。この際にも条件についての説明が尾を引いたが、設問は「賛成か反対か」だけを問うているのであり、条件の内容の説明は不要、蛇足と言うことになる。この問いに対する正しい答え方は「条件付きで賛成」に尽き、これで必要かつ充分な要件を満たしている。その条件内容についての説明は、求められた時に別な時点で行えば足りるし、立てられた質問に対する直截な答え以外は全て、夾雑物となり、時間的観点からしても目標達成についての障害となっているのである。

政治学者坂本義和氏は「なぜ、ひとをころしてはならないか」という問いは、論理的な証明で答えられる、また答えるべき問題ではありません。それは、「人間は誰もが同じく生命を持った人間だという感覚」、「他者の生命に対する畏敬の感覚」という、論理や論証よりも根源的な”感性”かかわること、だと述べ、それ故に国家の正義と同列に論じるのは馴染まない、という考え方のようだ。

現在、日本で論じられている「脱原発」問題は、"個人=人間=生命=生きる"の立場から考えれば、即「脱原発」の結論しかあり得ない。何故なら何十万年も先の子孫に問題を残し、地球上の生き物にも悪影響を及ぼさないようにする手立てが無い以上、原子力エネルギーの利用には即中止以外の選択肢は存在しない。

再稼働や不確かな安全性の追求に現を抜かしているのは、将に金に振り回され、金儲けだけが目標である企業やそこから提供される金を当てにしている政治家や、学者や、実業家や、国家権力者達である、と言うことになる。

さて、ここで文章読解力について、皆さんのご意見を伺いたい。

「詩をきっかけとして考える会」3月例会リポート、私の表現中に「これに(投げかけられた質問に対し)正面から応えたのはJ一人であった。」とあるが、この文脈から直ちにJ一人だけが「正論」を述べた、と解釈するような方が、レポートを読んで下さった中に果たして何人居られるだろうか?(一人も居る筈が無い、と殆どの方は考えられるであろうが、実は一人だけ現実にそう主張し続ける人物が居た、という事実と、(私の説明が下手だった故かも知れぬが、その場で私の説明に明快な理解を示された方も余り見受けられ無かったことに、私は今でも驚きを隠せない。理解する前に激しい思い込みで物事を判断するという”老人の硬直した思考形態”と言えば、その通りなのだろうが、私自身が勉強する場である「詩をきっかけとして考える会」では、そこまでの不毛の無理解や誤解に対応する余裕は全く無い(時間的にも、労力的にも)。

どなたに読んで頂いても先ずお分かりになるように、これは単に発せられた質問に対し、どういう答え方(不必要な)回りくどい説明をせずに、問われたことだけに直截に回答したか、という事実の報告以外に、他の解釈の介在する余地などあり得ないだろう、と確信するのだが、如何であろうか?
ここには己の発言だけが「正論」だという主張の片鱗すら発見することは出来ないではないか。私の言っていることが本当に間違っているだろか?
言い換えると、素直に、正しく文脈を読み取り、文意を汲めば誤解の余地など全くと言ってよい程存在しない、という私の解釈に、本当に無理があるのだろうか?

お茶やアルコールを飲みながら、何人かの仲間たちと最近の社会情勢について雑談しながら愉しむことは、私自身嫌いでは無い。そういう井戸端会議的集まりにもそれなりの利点はあるだろう。

しかし、私には老若男女を交えた親睦会のリーダーを務める気は最初から無い。そういう会にも一参加メンバーとして、時間があれば参加してもよい、という気持ちはあるにせよ...。

一方、私にとって「詩をきっかけとして考える会」では、自身の勉強をすることに徹したい。ここでは、他人の面倒を見る気は無い。従って、会の理念として当初より”親睦会的要素”を極力排除することを目指して来たのは、会の流れを正しく把握して来られた方には改めて説明するまでもないことだろう。しかし、ともすれば現在の参加メンバーには、”親睦会”と勘違いされている向きも少なくないように見受けられる。

つまり、私の申す、いわゆる”勉強”の為には、余計な夾雑物を極力排し、テーマと直接向かい合い、これについて熟慮し、検証し、論証の結果、結論を導出する。その為に一番効果的と考えられる方法を模索しながら実施して行く。ただ、これに尽きるのみである。それ故、私自身の勉強や、その仕方に関心も興味もない方には参加する意味が殆ど無い、と言える。私自身の勉強に興味がある方、あるいは同じような姿勢で勉強してみよう、と考える方や、私の勉強について自分の方から啓蒙してやろう、と思われる方々のみが集まればよい、ということである。
もし、そういう方が私の他には誰一人存在しなくても、それはそれでよい、のである。

長保寺住職瑞樹氏が一人で瞑想し、己を高める、というのと同じことであり、或る面では、それが最も効果的な勉強方法かも知れない。何と言っても立てたテーマから迷走する夾雑物を排除する為にはベストであることは間違いない。

言ってみれば、これは単に「文章読解能力」の問題で、その入口で戸惑っているようでは、本題に入るまでに到底時間が足りない、と言う、ただそれだけの話である。

私には、単なる「親睦会」ではない「詩をきっかけとして考える会」に、割くべき時間はあるが、老人サロン的親睦会には暇のある時だけ参加することにしたい。

以上が私の率直な見解である。ヴァンサンカンなど会場を設けて行う会が、たとえ開催されなくなっても私の中では、自分が生きている限り「詩をきっかけとして考える会」が消滅することはないだろう。

5月の「詩をきっかけとして考える会」の日程案としては26日(土)もしくは19日(土)が挙がっているが、会の理念を正しく理解し得る方々のみの、ご意向次第でヴァンサンカンの会場予約を取ることにしたい。率直なご意見をお聞かせ願いたい。(文責: 城 久道)

2012年4月1日日曜日

「詩をきっかけとして考える会」3月例会報告および4月例会テーマ


 例会テーマは「日本人のアイデンティティーとは何か?」であった。敷衍すれば、「あなたの考える”日本人のアイデンティティー”とはどんなものですか?」だったわけだが、これに正面から応えたのはJ一人であった。
その考え方は「良くも悪くも<島国根性的思考方法、感覚を、程度の差こそあれ有していることを認識し、許容し合っていること>」である。

一般的に言えば、日本人は似たような顔、皮膚の色を有し、同じ言語を使用するが故に同じ島に住む仲間だと意識し合い、安心して一定範囲で許容し、相互扶助する。
他方、島の外から来た人間は全て”外人”であり、違う顔、違う皮膚の色、違う言語を使用する異人だと意識し、親切にはするが、先ず信用はしない。
このような基本的姿勢から島内人は「赤信号、みんなで渡れば怖くない」傾向を示し、国(島)外の報道ですら、島内のフィルターが掛けられていないものを、意識的あるいは無意識的に回避し、排除しようとする。

そのような傾向を有していることが日本人の特質と言え、それが日本人のアイデンティティの基本を成している、という考え方である。

これに対し、他のメンバーの発言は、この問いかけであるテーマに正面から応えるものでは無く、その周辺を迷走する事態に終始した。たとえば、日本人のアイデンティティそのものが時代により好ましくない方向に向かっている、とか外国の文化に対し日本文化はどうあるべきか?とか、挙句の果てには、戦後の教育が悪かった、とかの類である。

これらは、3月例会の為に立てられたテーマを完全に逸脱している、と言わざるを得ない。ここで、これらの話題を取り上げることの是非を云々しているのでは無い。

それでなくてもテーマが大過ぎるので、夾雑物(すなわち、決められたテーマに従わない、整理されていない発言)の混入することは事態を徒に混乱させるだけである。

ここで必要なのは、お内儀さん達の井戸端会議の延長そのもののような「みの・もんた」式TVコメントの受け売りや新聞、雑誌に現れる有識者発言の紹介が求められているわけでは無く、参加メンバーの一人を仮にA氏と呼ぶならば、A氏自身の考える”日本人のアイデンティティー”とは何か?を訊ねているわけであるから、A氏自身の”考えた”「日本人のアイデンティティ」でなければ、何の意味も持たない。当然、辞書やウィキペディアにA氏自身の考えた”アイデンティティ”が記載されていることなどあり得ないことは自明の理である。

別な場で、お爺さんたちも加わったお内儀さん達の井戸端会議をやってみることが無意味だとは思わない。

しかし、我々の会「詩をきっかけとして考える会」の原点は、乾燥した埃塗れの路上に、きらっと光る珪砂質の破片や炭素質のダイヤモンドの小さなかけらを発見し、それをきっかけとして自分の頭で十二分に考え、それが如何に稚拙かつ脆弱な論拠あるいは論理であるにせよ、自らの頭で考えた結果、到達し得た結論であるならば、それは充分に価値のある成果であると信ずるし、それこそがこの会の存立意義でもある。

この基本ルールが守られなければ、コーディネーターとして私には、本会を続けることが不可能である。それは私の寿命から客観的に判断しても残された時間は限られている、と考えているからである。端的に言って、夾雑物などに時間を割く余裕は無い、純粋に「きっかけとして考える会」に徹したい。

4月例会テーマは私、Jの考える「国家と個人」について述べることにする。但し、いつも発言しているように、このテーマは私の拙い頭で約50年間程考えても、上手く纒まりの付かない話であることを予めお断りしておきたい。申し訳ないが、一種の見切り発車である。
また、前回にも注意事項として附記したが、この話に対する感想やご意見は別な場所で、別に機会を設けて伺うことにする。4月例会では、この話についての参加メンバーの発言は、話の内容を理解する為の質問や疑問点の解明だけに限ることにする。偏に議論の迷走を回避する為である。(文責:城 久道)

「詩をきっかけとして考える会」4月例会(花見)案内


 時間が切迫しているので、3月例会報告に先立ち、4月例会案内を優先する。例会は大体昨年の要領に従い晴雨に拘わらず、花見を兼ねて開催する。場所は琴の浦温山荘園本館洋間と隣接する海南市の公園(花見)とする。(Mさんから昨年に続き焼き鳥差し入れの予告がありました)奮ってご参加の程!

【注意事項】
1.雨天の場合は公園内の花見を取り止め、温山荘園洋間にて会を行う。
2.集合場所: 琴の浦 温山荘園に隣接する海南市の公園(去年と同じ花見場所)。(注)12:30から花見が始められるように集合されたい。
3.飲食物は、幹事が纏めて準備(割り勘各自実費負担)
(注)昼食は昨年同様Sさんが腕を振るって下さいます(実費として各自1,000円程度負担予定)。
その他の費用として温山荘会場使用料として2,500円を参加メンバーで頭割り負担400-500円/人程度およびコーヒー代実費、加えて温山荘入園料300円が入用。
4.4月例会は、昼食準備のため、参加希望の意思表明が必要(但し、3月例会出席者(敬称略)K、N、S、T、Jの他、M)に限り欠席の場合のみ要連絡。尚、時間の関係で出欠連絡はSさんに直接でも可。
5.時間その他の状況にもよるが、温山荘園洋間でTさんのミニハープ演奏を予定。
6.3月例会報告および4月例会テーマは追って連絡する。                                                                         (文責:城 久道)


4月例会の場所、日時は下記の通り。

       場所: 琴の浦 温山荘園洋間および隣接する海南市の公園(花見)
       日  時: 4月7日(土)12時30分より

                  「温山荘園」TEL:073-482-0201

2012年3月25日日曜日

「詩をきっかけとして考える会」3月例会案内


 2月例会には、予定通り長保寺住職瑞樹正哲氏を招いて話を伺った。出席メンバーはTa、K、N、Ts、(途中より)S各氏およびJの6名。
iPadを駆使して図解や写真を利用しながらの分かり易い説明であった、と思う。
この思考方法が「個人と国家」の問題を考える際、「有効な手段の一つとなりそう」という私、城の見解に出席メンバーが、どの程度の賛意を表されたか、今のところ不明であるが、個人的にはなかなか興味深い思考方法であると考えている。

さて、3月例会では、前回から持ち越しのテーマ「日本人のアイデンティティーとは何か?」を参加メンバー各人から述べることにしたい(注:もし、参加メンバーの方で国籍が日本以外の方、たとえば、中国籍の方が居られた場合、その方は「中国人の…」また、韓国籍の方は「韓国人のアイデンティティーとは何か?」を語って頂きたい。)

また、時間があれば、コーディネーター城から、「個人と国家」の具体的象徴は、結局「生命と金(特に市場原理型資本主義)」に尽きるのでは無いか?という考えや、今読んでいる小説白石一文著「幻影の星」に出て来る地球科学における「長尺の目」という考え方にも触れてみたいし、更に、詩人金時鐘氏が評価する韓国映画「ポエトリー アグネスの詩」(詩が死にゆく時代への開き直りの刃、かな)に描かれた主人公ミジャを介して「詩をきっかけとして考える会」の原点を指向する「詩」あるいは「ポエトリー」の本質または、その捉え方について共感するところにも触れてみたい。


3月例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
       日時:3月28日(水)午後1時30分より

              「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899

                          (文責:城 久道)

2012年2月14日火曜日

「詩をきっかけとして考える会」2月例会案内


「詩をきっかけとして考える会」2月例会の案内です。
実は下掲の文章を前置きとしよう、としましたが、余りにも長くなったので、読み辛い人には、この前段だけで用が足りるようにしました。後段は関心のある方に読んで頂ければ幸いです。


1月例会では、出席メンバー3名(N、T氏およびJ)による協議の結果、今年度の大目標として、「個人と国家」、特に「国」とは何か?を取り上げることに決定した。ただ、このテーマは大き過ぎ、また検討範囲が余りにも広範に亘ると考えられ、その取り上げ方やアプローチの仕方などにも工夫を要するものと想像される。そこで、コーディネータJの判断で、先ず、次回例会には長保寺住職瑞樹正哲氏を招き、彼のブログ「鐘声」でも紹介されている”Quantum Sense”という考え方を紹介して頂くことにした。今回の企画は、この考え方の是非を論ずるものでは無いことを先ず理解して頂く必要がある。つまり、飽くまで、この思考方法が今後の大テーマ議論の際、アプローチの一方策として役立つかも知れないというJの勝手な推定に基づくものである。


したがって、今回はいつものようなフリートーク、フリーディスカッションの形式を採らず、参加メンバーからの質問も講演者により提示された内容を理解するためのものに限ることにする。言う迄も無いが、これは、当方からお願いした講演者に対し、最低守るべきルールと考えるからである。


それで、特に2月例会は、この方針を了承された方々のみに参加して頂きたい。いつものようなフリーディスカッションを望まれる方は3月例会以降のご参加を検討されたい。


もし、時間に余裕があれば、参加メンバー全員から「日本人のアイデンティティーとは何か?」を伺いたい。実は、この問いは1月例会でN氏より発せられたものであるが、私(J)自身は上手く答えることが出来なかった。(注:もし、参加メンバーの方で国籍が日本以外の方、たとえば、中国籍の方が居られた場合、その方は「中国人の…」また、韓国籍の方は「韓国人のアイデンティティーとは何か?」を教えて頂きたい。)


2月例会場所、日時は下記の通り。

      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階個室
     日時:2月28日(火)午後1時30分より
              TEL: 073-482-1899


<前置きとして準備した部分>

今朝(2月12日)の朝日新聞朝刊書籍広告欄に次のような本の広告を見付けた。『私たちは、原発を止めるには 日本を変えなければ ならないと思っています。』インタヴュー集とあり、上杉隆/小出裕章/古賀茂明/坂本龍一/高橋源一郎/他の方々の氏名が挙げられている。その隣の広告タイトルは次の通りである。『99%の反乱』、サブタイトルは”ウォール街占拠運動のとらえ方”とあり、内容紹介の一部は「2011年9月、肥え太った1%のスーパーリッチに対して、99%側のユニークな「異議申立て」が開始された、とある。


別なページの書籍広告欄には、「第二のフクシマ、日本滅亡」広瀬隆著の書籍広告が載せられ、サブタイトルや紹介文は次のようになっている。「福島第一原発事故は収束」だって?ふざけるな!!”放出され続ける放射能は、天文学的な量。全原発即時廃炉を急げ!この国は死に至る…。”


また、読売新聞朝刊第一面には、理化学研究所理事長で、ノーベル化学賞受賞者でもある野依良治氏が、『地球を読む』というシリーズ欄でタイトル「科学の開国」の文章中サブタイトルに”国益を生む戦略と体制を”と記している。


更に、芥川賞、大江健三郎賞を受賞した作家中村文則氏の最近作「王国」第56頁には次のような文章がある。「…世界には、基本構図がある。富む者が富み続け、持っている者が持ち続けるという構図。…その構図には出入りはある。でもどのような国でも、そのようなシステムは構築されているんだ。国別というよりは、連動するように。…柔らかく、弾力を持つそういったシステムが」


上記全ての表現から、私は国というシステムの目指す方向、あるいは国の利益、いわゆる国益というものは必ずしも一般庶民の幸せや利益とは(少なくとも現在は)一致するものでは無い、と考えざるを得ない。


国を構成するのが、善良な一般市民だけであるならば、国益と庶民の利益は一致するはずだ。だが、実際には必ずしもそうなっては居ないことに気付いている人達も少なくない、と想像するのだが、如何であろう?


私の想像が完全に間違っていなければ、それは「国」と「個人」の関係の間の何処かにズレか誤りが存在するということであろう。


その存在するものが何であるのか?を突き止めるための前提として、先ず、「国」とは何か?「国家」とは何か?というところから考え始めるべきだろう。


しかし、人類がその進化の過程で「国」というもの策定し、そのシステムを運用し続けて来たのには、それなりの理由、意義、有用性などがあったからに違いない。それは一体いつ頃始まったことなのか?どのようなプロセスを経て今のような形態に立ち至ったのか?そして現在のような「国家」のあり方が一般市民の求めるシステムとして本当に適切かつ妥当に機能しているのだろうか?


考えなければならない問題は気の遠くなる程ある。また、考え方の方法論、アプローチの仕方も多々あると想像される。


直裁に申せば、私程度の思考能力を有する者が、浅学非才の知識で立ち向かおうとする試み自体、「風車に突進するドン・キホーテ」の姿を彷彿とさせるものであることを、自ら否定しない。


ましてや、福島原発大事故以来の、この国の大衆(適菜 収氏のいうB層か?)の有様を観たり、広瀬隆氏や熊本の小野・出来田医師の警告に耳を傾けようとしないB層の反応を知れば、今更「国家」と「個人」の問題などを考えたりしても、何らの益もなく、全く無意味かも知れない。


この状況は我が国だけの問題では無い。世界中の人類が自然界に元から存在する放射能の許容レベルを遙かに超えて、自らの存在を抹殺して余り有る放射能を人工的に増加させる方向に舵を取り続ける以上、人類の存続自体が問われているのに、その危機感をどれほどの数の人間が誤りなく感知しているであろうか?


同夜(2月12日)NHK Eテレで放映された「フォレストシンフォニー 森の生命の交響曲」の番組中で、坂本龍一氏も日本人は広島、長崎への原子爆弾投下によって、更に福島での原発事故により三度目の放射能被曝を受けた。だからこそ今、日本人がその体験を世界に向かって伝え、生き物の存在に重大な被害をもたらす原子力エネルギー利用を直ちに停止して、自然エネルギー活用の方向に舵を取り、森林を大事にして、森の生命と共生すべきことを熱く、提唱していた。


長い前置きとなったが、それでも私は2月例会で、予定通り「国とは何か?」そして同時に「個人の存在意義」をテーマとして取り上げることにしたい。


殆ど空しいと思われる活動を何故に続けるのか?それは、ただ記録のためである。20世紀の終わりから21世紀の初めに極東の日本という国に生息していた、名も無きホモ・サピエンスの一匹が、どのような考えで、その困難な時代を生きたか?をこうして文字で記録し、人類が絶滅した後にも奇跡的に資料として残れば、大変幸いであるし、また全てが喪失したとしても、それはそれで、その結果を、淡々と受け容れるのみである。「たった、それだけ?」と訊かれれば、「そう!」と答えるしかない。(文責:城 久道)

2012年1月31日火曜日

「打出の小槌と放射能ちり」の童話

 東大工学部を卒業して東京電力福島第二原子力発電所に勤務し、事故前に退社した後、熊本医大を出たOnodekitaこと、医師小野俊一氏の講演動画「フクシマの真実と内部被曝 2012年1月26日 於やましろ病院」(http://www.dailymotion.com/video/xo1plg_yyyyyyyyyyyy-yyyyyyyyyy-yyyyyyy_tech )を観て、信じたくはないのですが、ショックを受けました。

今朝、自分の「しゃらくさい人生覚え帳」を開きましたが、最初何も書く気がしませんでした。PCを終了させようとした時、浮かんで来たので、久し振りに詩を書きました。それが、これです。



「打出の小槌と放射能ちり」の童話
                 城 久道

しんしんと降り積もる
音もなく 人知れず
明るい陽射しの中を
密やかな月光の下に
しんしんと降り積もる
放射能ちり

自然が生み出した物ではない
金(かね)に目が眩み
人が造り出した
打出の小槌
振れば振るほど 降って来る
黄金(こがね)の雨

それを使えば楽になる
人々は重労働から解放され
腹一杯食べて 着飾って
放射能ちりの積もった 街へ出る
公園では 小鳥さえずり
幼子は走り回る

声も出さず 姿も見えぬ
怪獣が襲いかかろうとしている
人々は気付いていない
いや 気付かぬ振りかも
便利さは捨て難い
小金でも欲しい

そういう人達が居るから
打出の小槌メーカーは安泰
貧乏な村には 札束を叩きつけろ
学者の功名心を 金で擽(くすぐ)れ
政治家は 堂々と金で買える
うるさい奴らは マスコミで潰せ

いつの間にか 降り積もる放射能ちり
人間の寿命を遙かに超えて
分裂し 放射線を出し続け
生き物を 化け物としようが
打出の小槌を放さない俺
には無関係

ヒトの寿命は百歳くらい
後はどうなと きゃあなろたい

しんしんと降り積もる
音もなく 人知れず
明るい陽射しの中を
密やかな月光の下に
しんしんと降り積もる
放射能ちり

2012年1月6日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」1月例会案内


 "Change"のスローガンを掲げて登場した政治家オバマの変革も思い通りに進まないのに対し、暦は着実に新しい年に変わった。皆様はどんなお正月を迎えられたでしょうか。

政治が変わらないのは、特に日本の場合、専ら能力や品性の乏しい人たちに政治を委ねていることも大きな原因だと、かねがね発言して来たが、今やそれのみならず、「代議制」の仕組み自体、世界中で機能しなくなって来たという現実が益々明らかになっている、とも言えよう。
昨年中に本会でも取り上げ、発言して来た「主役は我々市民自身、怒り、行動し、自らで決める」という方向をイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ氏も展開している。
してみれば、我々の細やかな会の動向も世界の動きから然程逸脱していなかった、ということになる。

今年も新しい世界の動向を見極めつつ、我々の身近な問題から人類の未来を見据えて行きたい。その為に、会として一段と鮮明にしておきたいのは、取り上げるテーマはたとえ、何であれ、それらは全て現在と未来に焦点を絞った問題としたい。
過去の歴史を含め、過去の事項を取り上げる際は、現在と未来の問題に関し検証を要する場合のみにしよう、と考えている。言い換えれば、単なるノスタルジーや、老人の繰り言の類は徹底的に排除するという意味である。

より具体的な例を挙げれば、過去の成長モデルに囚われたまま経済を論じたり、冷戦対立構造中でのみ機能していた“核抑止力”問題をその枠から抜け出さずに論じたりする退嬰的後ろ向き姿勢を回避する事を指す。今や、大量生産、大量消費の考え方や、冷戦対立構造が崩れ、不安定国家群が核兵器を保有し、不穏分子がそれらを狙っている世界情勢中での、“核抑止”の考え方は、笑止な、全くの時代遅れ思考である。

言うまでもなく、経済も、政治も、軍事も、科学も常に流動している。旧来のパターン中で思考していては、未来の方向を敏感に捉えることは到底無理である。

過去のみに限った検証は学者たちに任せればよい。それはそれで何らかの意味は当然在るであろう。しかし、刻一刻現在を生きている我々市民に残された時間には限りがある。この会を曲がりなりにも進めて来た私自身が既に日本人男性の平均寿命に達せんとしている。個人の寿命を離れて考えてみても、今のような生活態度を人類が早急に改めない限り、その滅亡はそう遠くない、と確信する。

原子力利用に伴う弊害や、他の態様でのエネルギー利用に伴う環境汚染、自然破壊の問題は致命的なレベルに急接近している。

今求められているのは、エネルギー問題に託して言えば、「エネルギーの増産を企図するのではなく、如何にして消費せず、節約するか?を考えるべきである」すなわち、人類の発想転換、生活の仕方の転換が求められているのである。勿論、より具体的な態様として、政治、経済、科学、倫理の立場から問題の解決が図らねばならない。経済成長神話や技術革新一辺倒による利便性追求の、誤った固定観念を破棄することこそ人類が滅亡しないための唯一の方策であろう。

「詩をきっかけとして考える会」の新しい年における例会では、この意味で”柔らか頭の柔軟思考”を基本的スタンスとして、堅持して行こう。

さて、1月例会案内の前に、12月例会を簡単にレポートしておこう。

12月24日(火)昼頃から常時メンバーSさん宅を会場として、準備をして頂いた寒ブリを刺身や鍋でたらふく頂きながら忘年会を兼ねて進めた。出席者はK、H、S、T各氏とJの5名。

資料として、市立図書館郷土資料コーナーにて、Jがコピーして来た<大辺路「日置川・すさみの民話」>という記録から『藤本家の源平時代の出来事』が提供された。内容は、すさみ町江住の素封家藤本家が裕福となった由来を紹介するものであるが、源平時代に薩摩島津家の丸十家紋が出て来るなど些か怪しいところもある。因みに藤本は、常時メンバーN氏とJの曾祖父の家である。もう一つの資料は、より信憑性の高い、中央公論社の「日本の歴史6」<武士の登場>のコピーであって、城家の出自を示す平 永基(たいらのながもと)の孫である越後の城 助職(じょうのすけもと)の記録が残されている。

余興としては、永六輔、中村八大および坂本九の六八九トリオではないが、昭和六、七、八年生まれトリオ(K、HおよびJ)の顔ぶれに相応しく、Jが新宿西口の飲み屋で昔、入手した軍歌集所載の曲の幾つかをアカペラで披露した。敢えて注釈して置くが、このトリオが軍歌を愛し、ノスタルジーを求めているわけではない。当時の娯楽としての歌曲も、こんなもの以外には存在しなかったことを戦後生まれの団塊の世代に伝えて置きたかっただけである。更に、敗戦直後のラジオ全盛時代にスピーカーから常に流れ、子供時代に慣れ親しんだ唄も併せて披露された。

ここで2011年例会の総括として、参加者から寄せられた反響の内、注目すべき三つの例を紹介しておきたい。一つ目は、普通の主婦と自称される団塊世代のメンバーの「楽しい」という感想である。一般に主婦から寄せられる会の反応は「難しい」「よく分からない」が殆どであるが、会の進行役を努める私(J)としては、自分を含めて先ず楽しめることを念頭に置いている。皆わざわざ時間を割き、参加しているわけであるから面白くなければやりたくないし、自分の勉強にもならなければ、矢張り意味が無いので、この感想は将に「我が意を得たり」の感がある。

二つ目は二十代女性大学院生の反応で、「会メンバーの話を聞けることが嬉しい」、また11月例会における李梅渓の友ヶ島巌額に纏わる逸話を、近くに住んでいながら知らなかったことは恥ずかしいが、新たな発見が出来て良かった、というものである。これに対する私(J)のコメントは次の通りである。「識ろうとしないことは恥だが、”知らないこと”は恥でも何でもなく、この歳になった私ですら新たな発見のあることが楽しくて仕方がない」。

三つ目は、北海道札幌からの反響で、彼は私(J)の中学、高校時代の同級生であって、例会に出席したことはないが、私が送信し続けている例会レポートを読んで「良い仲間がいていいですね」と便りを呉れた。そう、将に良い仲間が集まらなければ、会は成り立たない、一人ではどう仕様もない。これまで、私のレポートを冗長と感じる方も居られたであろう。しかし、私は遠く離れた人々にも自分たちの活動や考え方を知って貰いたいと、書ける範囲で丁寧に書くことを心懸けている。

さて、1月例会の日時、会場は下掲の通りであるが、今回は新年会を兼ね、一緒に12時30分より昼食(割り勘実費+人数割り部屋代負担)を摂りながら進めたい。例会内容のメインは恒例に従い「自己表現」とする。楽器持ち込みOK、演奏、歌唱、踊り、詩の朗読、トーク、手品などジャンルは問わない。また上記した会の基本的方向に沿って、取り上げたいテーマを提案して頂くことも大歓迎(文責: H.J.)。


      場所: JR海南駅前「ヴァンサンカン」2階中個室
         日時:1月24日(火)午後12時30分より

          連絡先: 「ヴァンサンカン」TEL: 073-482-1899