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2012年4月1日日曜日

「詩をきっかけとして考える会」3月例会報告および4月例会テーマ


 例会テーマは「日本人のアイデンティティーとは何か?」であった。敷衍すれば、「あなたの考える”日本人のアイデンティティー”とはどんなものですか?」だったわけだが、これに正面から応えたのはJ一人であった。
その考え方は「良くも悪くも<島国根性的思考方法、感覚を、程度の差こそあれ有していることを認識し、許容し合っていること>」である。

一般的に言えば、日本人は似たような顔、皮膚の色を有し、同じ言語を使用するが故に同じ島に住む仲間だと意識し合い、安心して一定範囲で許容し、相互扶助する。
他方、島の外から来た人間は全て”外人”であり、違う顔、違う皮膚の色、違う言語を使用する異人だと意識し、親切にはするが、先ず信用はしない。
このような基本的姿勢から島内人は「赤信号、みんなで渡れば怖くない」傾向を示し、国(島)外の報道ですら、島内のフィルターが掛けられていないものを、意識的あるいは無意識的に回避し、排除しようとする。

そのような傾向を有していることが日本人の特質と言え、それが日本人のアイデンティティの基本を成している、という考え方である。

これに対し、他のメンバーの発言は、この問いかけであるテーマに正面から応えるものでは無く、その周辺を迷走する事態に終始した。たとえば、日本人のアイデンティティそのものが時代により好ましくない方向に向かっている、とか外国の文化に対し日本文化はどうあるべきか?とか、挙句の果てには、戦後の教育が悪かった、とかの類である。

これらは、3月例会の為に立てられたテーマを完全に逸脱している、と言わざるを得ない。ここで、これらの話題を取り上げることの是非を云々しているのでは無い。

それでなくてもテーマが大過ぎるので、夾雑物(すなわち、決められたテーマに従わない、整理されていない発言)の混入することは事態を徒に混乱させるだけである。

ここで必要なのは、お内儀さん達の井戸端会議の延長そのもののような「みの・もんた」式TVコメントの受け売りや新聞、雑誌に現れる有識者発言の紹介が求められているわけでは無く、参加メンバーの一人を仮にA氏と呼ぶならば、A氏自身の考える”日本人のアイデンティティー”とは何か?を訊ねているわけであるから、A氏自身の”考えた”「日本人のアイデンティティ」でなければ、何の意味も持たない。当然、辞書やウィキペディアにA氏自身の考えた”アイデンティティ”が記載されていることなどあり得ないことは自明の理である。

別な場で、お爺さんたちも加わったお内儀さん達の井戸端会議をやってみることが無意味だとは思わない。

しかし、我々の会「詩をきっかけとして考える会」の原点は、乾燥した埃塗れの路上に、きらっと光る珪砂質の破片や炭素質のダイヤモンドの小さなかけらを発見し、それをきっかけとして自分の頭で十二分に考え、それが如何に稚拙かつ脆弱な論拠あるいは論理であるにせよ、自らの頭で考えた結果、到達し得た結論であるならば、それは充分に価値のある成果であると信ずるし、それこそがこの会の存立意義でもある。

この基本ルールが守られなければ、コーディネーターとして私には、本会を続けることが不可能である。それは私の寿命から客観的に判断しても残された時間は限られている、と考えているからである。端的に言って、夾雑物などに時間を割く余裕は無い、純粋に「きっかけとして考える会」に徹したい。

4月例会テーマは私、Jの考える「国家と個人」について述べることにする。但し、いつも発言しているように、このテーマは私の拙い頭で約50年間程考えても、上手く纒まりの付かない話であることを予めお断りしておきたい。申し訳ないが、一種の見切り発車である。
また、前回にも注意事項として附記したが、この話に対する感想やご意見は別な場所で、別に機会を設けて伺うことにする。4月例会では、この話についての参加メンバーの発言は、話の内容を理解する為の質問や疑問点の解明だけに限ることにする。偏に議論の迷走を回避する為である。(文責:城 久道)

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