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2012年4月11日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」4月例会報告


 先ず、和歌山市と海南市の境界に位置する「温山荘」に隣接する公園で30分遅れの花見の会を、Siさんによって用意されたおでん鍋を囲みながら開いた。空気はやゝ冷たかったものの、花は満開、予想的中の結果であった。隣のグループは「うたごえ九条の会」のメンバーで静岡から参加された女性シンガーを中心に合唱が流れていた。この会に出席されていた金原弁護士とも挨拶を交わし、「子どもたちの未来と被ばくを考える会」のチラシを当方メンバー全員が受け取った。その後、会場を温山荘園洋間に移し、K、H、N、Sa、Si、T氏、Jの7名で「個人(人間)と国家」のテーマについて専らJの見解を述べた。その前にH氏から温山荘海側の立地について或る歌人の詠んだ和歌の碑を何処に建立するかの検討の為されていることが報告された。引き続き、Tさんによりミニハープが演奏され、最後に即興演奏のBGの中、トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「生きることについて」がJの朗読で披露された。

この詩を朗読したのは、次のテーマ「人間と国家」の”人間”の本質は”生命”にあり、”いのち”は、この詩のように”生きる”ことに尽きる、と言うJの見解を具現する目的にあった。他方、少なくとも現存の国家は金そのものを象徴しており、その金も市場原理主義により暴走するままに、原子力エネルギーのように、人間の力では制御し得ない、という考えである。民主主義の模範国家を自負して居る米国の政治も政治家も金にまみれ ており、オバマ大統領がオサマビン・ラディン氏を裁判も無しに殺害し、「正義が執行された」と誇り、こうした公然たる国家による殺人が誇示され、また、それが米国市民に支持されたという事実を、更に米国議会におけるユダヤ資本のロビー活動故にイスラエルのパレスナチ人に対する理不尽な迫害が等閑視されている現実をどう捉えるべきか?

私人が人を殺せば殺人者になるが、戦争が最も代表的な形態であるように、国家が人を殺しても殺人とはならない、のは何故なのか?

ここで国家の執行する「死刑」について、日本は「先進国」の中で、死刑賛成者が突出して多いのは何故だろうか?日本人はそれ程国家の正義を信じているのだろうか?という問題が提起され、メンバー全員に「死刑制度」について賛成か反対かを問うた。反対はT、Jの2名。他の方々は全て条件付きで賛成、という結果であった。この際にも条件についての説明が尾を引いたが、設問は「賛成か反対か」だけを問うているのであり、条件の内容の説明は不要、蛇足と言うことになる。この問いに対する正しい答え方は「条件付きで賛成」に尽き、これで必要かつ充分な要件を満たしている。その条件内容についての説明は、求められた時に別な時点で行えば足りるし、立てられた質問に対する直截な答え以外は全て、夾雑物となり、時間的観点からしても目標達成についての障害となっているのである。

政治学者坂本義和氏は「なぜ、ひとをころしてはならないか」という問いは、論理的な証明で答えられる、また答えるべき問題ではありません。それは、「人間は誰もが同じく生命を持った人間だという感覚」、「他者の生命に対する畏敬の感覚」という、論理や論証よりも根源的な”感性”かかわること、だと述べ、それ故に国家の正義と同列に論じるのは馴染まない、という考え方のようだ。

現在、日本で論じられている「脱原発」問題は、"個人=人間=生命=生きる"の立場から考えれば、即「脱原発」の結論しかあり得ない。何故なら何十万年も先の子孫に問題を残し、地球上の生き物にも悪影響を及ぼさないようにする手立てが無い以上、原子力エネルギーの利用には即中止以外の選択肢は存在しない。

再稼働や不確かな安全性の追求に現を抜かしているのは、将に金に振り回され、金儲けだけが目標である企業やそこから提供される金を当てにしている政治家や、学者や、実業家や、国家権力者達である、と言うことになる。

さて、ここで文章読解力について、皆さんのご意見を伺いたい。

「詩をきっかけとして考える会」3月例会リポート、私の表現中に「これに(投げかけられた質問に対し)正面から応えたのはJ一人であった。」とあるが、この文脈から直ちにJ一人だけが「正論」を述べた、と解釈するような方が、レポートを読んで下さった中に果たして何人居られるだろうか?(一人も居る筈が無い、と殆どの方は考えられるであろうが、実は一人だけ現実にそう主張し続ける人物が居た、という事実と、(私の説明が下手だった故かも知れぬが、その場で私の説明に明快な理解を示された方も余り見受けられ無かったことに、私は今でも驚きを隠せない。理解する前に激しい思い込みで物事を判断するという”老人の硬直した思考形態”と言えば、その通りなのだろうが、私自身が勉強する場である「詩をきっかけとして考える会」では、そこまでの不毛の無理解や誤解に対応する余裕は全く無い(時間的にも、労力的にも)。

どなたに読んで頂いても先ずお分かりになるように、これは単に発せられた質問に対し、どういう答え方(不必要な)回りくどい説明をせずに、問われたことだけに直截に回答したか、という事実の報告以外に、他の解釈の介在する余地などあり得ないだろう、と確信するのだが、如何であろうか?
ここには己の発言だけが「正論」だという主張の片鱗すら発見することは出来ないではないか。私の言っていることが本当に間違っているだろか?
言い換えると、素直に、正しく文脈を読み取り、文意を汲めば誤解の余地など全くと言ってよい程存在しない、という私の解釈に、本当に無理があるのだろうか?

お茶やアルコールを飲みながら、何人かの仲間たちと最近の社会情勢について雑談しながら愉しむことは、私自身嫌いでは無い。そういう井戸端会議的集まりにもそれなりの利点はあるだろう。

しかし、私には老若男女を交えた親睦会のリーダーを務める気は最初から無い。そういう会にも一参加メンバーとして、時間があれば参加してもよい、という気持ちはあるにせよ...。

一方、私にとって「詩をきっかけとして考える会」では、自身の勉強をすることに徹したい。ここでは、他人の面倒を見る気は無い。従って、会の理念として当初より”親睦会的要素”を極力排除することを目指して来たのは、会の流れを正しく把握して来られた方には改めて説明するまでもないことだろう。しかし、ともすれば現在の参加メンバーには、”親睦会”と勘違いされている向きも少なくないように見受けられる。

つまり、私の申す、いわゆる”勉強”の為には、余計な夾雑物を極力排し、テーマと直接向かい合い、これについて熟慮し、検証し、論証の結果、結論を導出する。その為に一番効果的と考えられる方法を模索しながら実施して行く。ただ、これに尽きるのみである。それ故、私自身の勉強や、その仕方に関心も興味もない方には参加する意味が殆ど無い、と言える。私自身の勉強に興味がある方、あるいは同じような姿勢で勉強してみよう、と考える方や、私の勉強について自分の方から啓蒙してやろう、と思われる方々のみが集まればよい、ということである。
もし、そういう方が私の他には誰一人存在しなくても、それはそれでよい、のである。

長保寺住職瑞樹氏が一人で瞑想し、己を高める、というのと同じことであり、或る面では、それが最も効果的な勉強方法かも知れない。何と言っても立てたテーマから迷走する夾雑物を排除する為にはベストであることは間違いない。

言ってみれば、これは単に「文章読解能力」の問題で、その入口で戸惑っているようでは、本題に入るまでに到底時間が足りない、と言う、ただそれだけの話である。

私には、単なる「親睦会」ではない「詩をきっかけとして考える会」に、割くべき時間はあるが、老人サロン的親睦会には暇のある時だけ参加することにしたい。

以上が私の率直な見解である。ヴァンサンカンなど会場を設けて行う会が、たとえ開催されなくなっても私の中では、自分が生きている限り「詩をきっかけとして考える会」が消滅することはないだろう。

5月の「詩をきっかけとして考える会」の日程案としては26日(土)もしくは19日(土)が挙がっているが、会の理念を正しく理解し得る方々のみの、ご意向次第でヴァンサンカンの会場予約を取ることにしたい。率直なご意見をお聞かせ願いたい。(文責: 城 久道)

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