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2010年9月19日日曜日

敬老の日

意欲と元気のある高齢者は、長年慣れ親しんだ自宅で、自分にできることは自分でやり、それがまだ可能である、と認識することで生き甲斐を持つことが出来る。そして、それを持続することで過剰な介護を回避し、寝たきりになったり、急速な老化や痴呆症状の進行を阻止できるものである。

止むを得ない場合を除き、老人ホームに全面的に頼る必要は無くなる。

勿論、介護する側も高齢者の場合、在宅介護を補助して貰えるヘルパーの存在は無くてはならない。

具体例を挙げれば、99歳の母親を入浴させるには、70歳の半ばを超える私たち夫婦では腰を痛めたりする危険があり、若いヘルパーさんの助けなくしては困難である。

被介護者の意欲を高めながら在宅介護を続けるには、高齢の家族と派遣される若いヘルパーとのコラボレーションが相俟って初めて上手く行く。
従って、生き甲斐を持って被介護者が毎日を送るには、その生活環境が重要な意味を持つ。

私の母の居室には、簡単なキッチンを備え付けてあり、遠赤外線の機器を使用して簡単な煮炊きは可能であり、今でも朝、昼は母が自分の好みの簡単な食事を摂っている。夜の食事だけは家人が調理、提供している。

冷蔵庫や電子レンジも自室にあるので、母は自分の好みの飲食がいつでも可能である。

勿論、材料の買い出しは我々老介護者やヘルパーが行っている。

99歳の母の願いは、食事と排泄は可能な限り自分で処理したい、と言うものであり、今のところ食事は70%、排泄は100%希望通りに達成されている。

無論、それに対応しうるように、母専用となった1階のトイレには手すりを設けたりしてある。

寝た切り老人を減らすには、被介護者本人の意欲を高めることが最も重要である。その為には、それを実現しうる設備や環境が求められる。そしてそれには相応の負担が必要となるが、現実には同居する家族の負担となる。

自分を産み、育ててくれた父母のためなら、当初からその負担を免れようとする子供達が居るとは考え難い。しかし、経済的あるいは自身の高齢化により、特に我が国の現状下では、思い通りに行かなくなって来た人々も決して少なくない筈だ。

私自身が今、その深刻な問題に直面する破目となった。何が敬老か?何処が敬老なのか?の思いを強くせざるを得ない。(次回に続く)

ご無沙汰しましたが、戻って来ました

Twitterでは短すぎるので、ここで十分に書いてリンクさせようと思う。

今や自分は生きるか死ぬか?の瀬戸際に追い詰められつゝある。いずれにしろ消え去ることは間違いないが、このまま押し潰されて、温和しくくたばる人間でもない。

無論、この問題に自己責任がない、とは言わぬ。

しかし、内橋克人氏が指摘される”幻だった「約束の大地」(文春文庫『もうひとつの日本は可能だ』二章参照)の、我が国の責任について口を閉ざしたまま人生の舞台から退場するつもりもない。

簡単に解決するような問題では無いだろうが、発言の機会も無いまま見棄てられ、朽ち果てて行かざるを得ない、多くの人々を代表して意見を述べて行こう、と思う。社会に波紋を及ぼす問題提起を行った上で、死んで行こう。

その問題とは、自分自身にとって火急の件であると共に解決せぬまま放置されている潜在化した高齢者問題である。

これについて、具体的かつ詳細な状況を順次記して行くことにしよう