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2010年12月31日金曜日

おおつごもり

 
西の烈風中、片男波海岸を散策して詠んだ句。




”海遙か 深紅に焼けし 大晦日”  鷦鷯

                            2010年12月31日

さて、明日からの年 鬼が出るか、蛇が出るか?

2010年12月30日木曜日

鱧皮巻き

I さん
皮巻き届けて頂き、有難う。


東京に暮らしていた親父の代から、正月は、この鱧皮巻きと紀南の南蛮焼きが無いと始まりませんでした。尤も敗戦直後や戦中は揃わなかった、と思いますが...。

曲がり形にも二日経てば、誰にも正月はやって来るでしょうが、私の書いた年賀状も正月早々に読んで、楽しい気持ちになるものでもないので、積極的に皆さんには出さず、貰った人への応答の形で出そうとしています。とは言っても、別に世を憚る内容でもないので、「昭和一桁の "老人と海"」ブログに先行公開して置きました。

ところで、朝日新聞の「弧族の国」と題するシリーズ取材記事、読んでいるかどうか分かりません(下記URLでも読めます)が、

http://www.asahi.com/special/kozoku/

毎日読み終わる度にため息が出ます。

12月27日だったか?NHKの「ニュースウオッチ9」の年内放送最終日の内容は帰省ラッシュの新幹線や高速道路の状況、円高効果の海外への出国風景、子供達へのお年玉アップ予想等でしたが、「年越し派遣村」も今年は無くなってしまったのか?そこには、この「弧族」たちの存在に関連する欠片もありませんでした。


この記事を読むことなくTVだけを観ている大方の人びとは、この国の救い難い「弧族」の存在をどこまで認識しているのでしょうか?

勿論、メディアに大いに責任があると思いますが、メジャーのメディアだけに任せていてよい時代ではないと考えます。機材と能力はあるわけですから、ユーチューブでも何でも利用して、どんどん出て行きたいものです。

締めの挨拶としては月並みですが、「よいお年をお迎えください。来年もよろしく」

2010年12月29日水曜日

2011年 年賀状

 年賀状は既に投函済みが、大方の情勢でしょうが、これから準備、投函あるいは年が明けなきゃ賀状とは言えめぇ!という意見もあるでしょう。小生は後者に属します。

 余りaggressiveでないのは、賀状の内容が正月早々読むには然程楽しいものではないからです。それで、賀状が届いた方々に応答の形でボツボツ出そうかな?と考えた次第。

 しかし、別に世を憚ることもあるまい、と結論し、それに先立ち以下の通り公開します。

頌春

 新しい年を迎え、近況報告です。

 仕事が途絶え、年金だけでは住宅ローン返済が不可能となりました。しかし、ホームレスでは母(99歳)の在宅介護が叶いませんので、住宅支援機構に特例措置の適用申請をしました。
 関係金融機関による当初の説明とは異なり、金利引き下げおよび返済期間の最長延期は「適用条件を満たさず」という結論で、下された判決は懲役五年、執行猶予三年でした。つまり、期間延長五年を加算し、毎月の返済額低減を三年間に限り認め、その結果返済総額は約14%増加する、というものです。
 三年は直ぐに経過するでしょうが、その間に状況変化が生ずるや否や?いずれにしろ、脳と体力の更なる増強に努め、完済時92歳(母114歳)まで、生き、仕事を続け、返済し続けることになりましたので、「応援、よろしくお願いしまース!」
          2011年正月

                    (住所)
                    (氏名)

2010年12月27日月曜日

「一若者からの応答」への返信


Y.A. 様

 12月例会に届けて頂いた小冊子「一若者からの応答」ありがとう、私の個人的感想を言わせて貰えば、大変嬉しいです。文字通り「詩をきっかけとして考える会」に発せられた若者からの応答と考えて良いなら、私はこのメッセージを確り受け止めたい、と考えます。このことについては、もっともっと書きたいし、私が適当と考える人達も加えて更にY.A.さんや、同じ考えの若い人達にも参加して貰って直接言葉を交わせる機会を持ちたい、と思います。

 その前に、先日ちょっと耳打ちした詩の話をしましょう。あなたが朗読してくれた金 時鐘さんの(確か?)「化石の夏」でしたか、あれと内容や方向は違うのですが、私の感覚ではある一点で共通の視点を感じた詩があるのです。それはジュール・シュペルヴィエル(国籍はスペインのようですが、生まれたのは南米ウルグワイだそうです)の『動作』とタイトルされた以下の詩です。

     うしろをふり向いたその馬は
     誰も見たことのないものを見た
     それから彼はユーカリの木のこかげで
     また草を食べつづけた

     そのものは人間でもなく木でもなかった
     一頭の牝馬でもなかった
     木の葉の上で 練習中の
     風の思い出でさえもなかった。

     それはこの馬より二万世紀も前に
     もう一匹のある馬が おなじ時間に
     急にうしろをふり向いて
     見たそれだった。

     それは
     人間も、馬も、魚も、虫も
     誰ももう見ることのできないもの
     この地球が、腕もとれ、脚もとれ、首もとれ
     彫像のかけらになってしまっても。


 私は、それ(共通の視点あるいは感覚)を第3連に見るのです。耳で一度聞いただけなので、はっきりとした自信があるわけではないのですが、金 時鐘さんの「化石の夏」にも一瞬で、気の遠くなるような長い時間の隔たりを感じ、それを表現した個所があったように思うのです。そして、もしかしたら第4連の「...誰ももう見ることのできないもの」に至る部分にも何か共通項を感じ得るように、私には、取れたのですが...。


 12月26日付の朝日新聞に、記者が「弧族」と造語して、一面に「死んでも独り」と大見出しを付けていました。

 小冊子中にあった、雨宮処凜さんの発言については全面的に納得です。”反貧困 脱「敵叩き」を”の大澤信亮さんの文章にも賛成です。

 私は、この人たちの言う今の若者の閉塞感や目的喪失感は、実はこの弧族と名付けられた高齢者たちが直面している問題とも、ある部分で共通するものがあると感じて居るのです。スタート地点から恵まれた、違う場所に立っていた一部の若者と、そうではない多数の若者たちが存在するように、大企業に勤め、いいタイミングで優雅な年金暮らしに入った恵まれた高齢者たちと、生活保護に近い、国民年金の受給資格しかない中小企業出身や自営業の高齢者たちの存在は、若者たちの構図と少なからぬ類似点があります。今の大多数の若者たちの持っている「社会のせいではない、自分が悪い」という意識を、実は弧族や弧族になり掛かっている高齢者たちも同様に持っている、と思います。そして「自分が必要とされること、意味のあることに関わっているのだ」という実感を持てなくて、無力感に陥っているという点でも一致しています。

 これらの人達(若者も高齢者も)は能力がないわけではないのです。細やかに暮らせて、他人のためにも役立つことや、意味のあることに関われる道筋さえ見つけられゝば、人は人間としてのプライドを持つことが出来、弱いものには手を差し伸べようと、心の余裕も勇気も出て来るものです。私自身も恵まれた高齢者ではなく、むしろ身近な問題すら抱えているのですが、それでもこの閉塞状態を齎し、若者たちや弧族同類高齢者たちを、喪失感と無力感だけの荒れ地に放り出したままであってはならない、と考えております。私のアイデアは、これらの若者たちと、これらの弧族高齢者たちがお互いの弱点乃至欠落部分を補完し合えるような場と方向を提供できないか?ということにあります。我々の会の常連のT.Y.さんも、私と全く同じではないかも知れませんが、似たような方向へのお考えを持って居られるように、私は感じて居ます。

 朝日新聞記事でも指摘していましたが、実は超高齢化と単身化(結婚しない若者たち)の問題は、日本人全体に関わる問題であって、今現役で日本の活動の中枢を担い、結婚して子供を育てゝいる(これらの問題とは無関係と考えている)世代といえども、決して無縁ではない、ということです。人は、自分がその立場にならないとなかなか実感できないものですが、時は直ぐに流れ、このまま放置すれば、彼らも、更に深刻な状態となった不毛の地に踏み込まざるを得ない事態になるのです。日本全体が超高齢化社会に入り込んで身動きが取れなくなる前に(もう、なりつゝありますが...)、今すぐにでも、希望の灯りが仄見えるような仕組みを作って置かねばなりません。そのためには、若者たちの力が必要ですし、あなた方はそのために十分に役立ち得るのです。「人のためになる、有意義な作業に関わることは、先ず自分自身のためにも必要であると共に、それは誰にとっても他人事ではない、結局は自らに関わる問題である、という正しい認識が必要です。

 どんな形で具体化するか?皆さんの(喪失感に苛まれる若い人達からも率先して)ご意見を集め、一緒に考えてみたい、と思います。その勇気を、あなたの「一若者の応答」から頂きました、有難う。また、どこかでお話しゝましょう

2010年11月2日火曜日

貴所感に対する私見-3

 我々が月一回開いている「詩をきっかけとして考える会」のメンバーに米寿を迎えられた和歌山の先達詩人山田 博氏が参加されています。この方は徴兵でマレー半島へ派遣され、敗戦により捕虜としての体験もされ、同郷の友の遺骨を抱いて復員されました。この方が、先日の10月例会で、詩人大木惇夫の詩集から”南支那海の船上にて”とサブタイトルされた「戦友別盃の歌」を紹介されました。それによって、「大義」について、私の視点から欠落していたものに気付かされました。それは「ロマン」です。このような言い方は戦後生まれの方には奇異に感じるかも知れませんが、私には完全に腑に落ちる話でした。

 当時の青少年達が、純粋に憂国の情を持って完爾として死地に赴いたのは、当時の、その生き方にロマンがあったからなのです。必ずしも強制されたものばかりではなく、純粋に捉えた、その主義主張に自らの生きる意味を見出だしたからなのでしょう。杉本中佐の「大義」を敷衍した思想は、天皇を中心とする日本が、欧米列強の植民地として呻吟していたアジア諸国を解放し、その利権を一方的に収奪するのではなく、「五族協和」の精神を持ってアジア人達だけで共存共栄する世界を構築すべく、リーダーとしての役割を日本が果たすべきだ、という信念を持ち、その理念を実現するため、使命感に燃えて、自らの身を進んで捧げよう、と行動した一面があります。

 無論、その理念の実体は建前とは全く異なるものでしたし、軍部や権力者がやったことは、拙劣な欧米植民地主義を拙速に実行しただけで、ご承知のような惨憺たる結果を自国民にも周辺各国にも齎しただけで終わりましたが...。ただ、そのことによって当時の青少年達の純粋な行動、信念やロマンが些かも損なわれることはない、と私は信じます。

 一番重要なことは、付和雷同して危険な方向へと一気に傾斜しがちな大衆(現在の日本人も)の特性を冷静に捉え、取り返しのつかない状況を事前に回避するための不断の努力が必要だ、ということです。現実には大変難しいことですが...。私は今の、日本の現状にも非常な危惧を頂いて居ります。「歴史は繰り返す」と言いますが、悲惨な戦争を回避することに徹し、再びあの愚かで、惨めな戦争だけは絶対に繰り返してはならない、と確信し、心からそれが実現することを願っています。その意味で「憲法九条」は世界に誇るべき規範であることは間違いありません。

 大変、長くなりました。この辺で失礼します。もし、インターネットを利用されているようでしたら、メールアドレスなどお知らせ頂けば、私の細やかな活動などご案内したい、と思います。意義のある所感を読ませて頂き有難うございました。

2010年10月29日金曜日

貴所感に対する私見-2

「大義」と呼ばれるものがあります。城山三郎にも「大義の末」という作品があります。私が関係する毎月の例会で、現在、この本を下敷きにして「大義」、そしてその「大義」の末に齎されたものについて、考えを述べ合っております。既に読まれたかも知れませんが、城山さんの自伝とも言うべきこの作品の主人公が純粋な気持ちで、自ら予科練を志願し、どのような経験をし、周りの庶民共々どのように悲惨な結果を味わうことになったか?

 城山さんも私も軍国少年ではありましたが、決して戦争を好んだり、戦争を容認する立場にはありません。にも拘わらず、そういう人達でも何の疑いもなく、そう信じて行動したという事実!それはどうしてなのか?その背景の恐ろしさを識り、そのような状態に陥るのを阻止することこそ、何にも増して肝要だと考えます。

 「大義」とは何か、定義と言うほど大袈裟ではなく、「大義」について各人の持つイメージを訊いてみました。大方の意見は「何かいかがわしいもの」「胡散臭いもの」でした。私の意見は誰でも、それを持ち出されたら正面切って反対できないものであって、それ自体には悪意は存在しないものの、それが権力者や為政者の恣意によって、曲げられて利用されると、とんでもない災厄を一般庶民に齎すもの、くらいに考えていました。

 私は、どちらかと言えば個人に関わる「義」と、組織が必要とする「大義」の区別を曖昧にしていたように思います。ここで、南原繁氏の「人間個人の完全な自由の確保」という言葉が重要な意味を持ちます。貴方の言われる『民主的社会人の根本は”独立した個人として自分の意見を持ち、組織には与しないことだ”』という意見には全く同感です。

 作品「大義の末」の主人公が信じた大義は、当時のベストセラーだった杉本五郎中佐の表した「大義」で、これは尊皇精神に基づく忠君愛国の書でした。時の権力者や軍部の腐敗、軍紀のゆるみなども手厳しく批判(但し、その個所は伏せ字とされて出版)した純粋な内容を、青少年達は自分たちの生き方の指針としたのです。その「大義」を信じ、率先して戦のために自らを投じた様子を、私は権力者に巧みに扇動、利用された、と観ていました。(更に続く)

貴所感に対する私見-1

H.I.様

 初めまして。ニックネーム(ぶらいおん)と申します、俳優Sさんから貴方の書かれた「折々に思う」が回って来ました。『何か、感想があれば…。』ということでしたので、書いてみます。


 1.私も”「九条の会」アピールに賛同する詩人の輪”に参加している一人です。貴方の所感の内容には略同感です。特に「人間個人の完全な自由の確保」は、私が常々考え、「かく、あらねばならぬ」と信じる中心に置かれるべき主張です。

 2.『戦争と個人の意志』の項目の下に書かれた内容について、私の意見を述べてみたい、と思います。「島尾敏雄を含め、特攻隊員がなぜ自ら志願したのか、戦後生まれのわたしには理解できない。---特攻を志願する心理は やはり不可解としか言いようがない。---」とあります。

 敗戦時12歳(国民学校6年生)、大東亜戦争(敢えて、太平洋戦争は使いません。言葉のすり替えによるいかがわしさを感じるからです。「大東亜戦争」の方が、実体は兎も角、遥に当時の状況を適切に表現している、と思います)開戦時8歳(国民学校2年生)だった私からすれば、当時の青少年が、何故率先して特攻隊員や予科練生を志願したか、痛いほど良く理解できます。

 色々な会で、いつも私が体験するのが、上記の一点で、戦中生まれと戦後生まれの決定的な体験、認識の差だと思います。私は今で言えば、小学生でしたが、いずれ中学校進学の年齢に達すれば、幼年学校か、海軍兵学校に入学し、勉強、訓練を経て「お国のために死ぬのだ!」と信じて些かも疑いませんでした。それは熱狂的な愛国青少年達ばかりのことではありません。私自身はと言えば、ごく平凡な何処にでも居る平均的な少年でした。

 当時の体験のない方に言っても、通用しないかも知れませんが、その時代の青少年達の全てに、それ(お国のために命を捧げる)以外の考え方や選択の余地は皆無でした。「狂気」と思われるかも知れません。全くその通りなのです。外から見れば「狂気」と見えるものが、国民全体の至極あたりまえの考え方とされていたのです。今の北朝鮮や、行き過ぎに見える中国の若者たちの過激デモこそ、その当時の日本の姿そのものです。(続く)

2010年10月5日火曜日

ホームレスの老々介護

 自らの不明を恥じねばならぬが、不動産バブル直前に執拗な銀行の勧誘に乗って、美しい海の見える紀南白浜に1LDKの仕事場を設け、リタイヤーの暁には、ここを売却して自宅の住宅ローン残額返済に充当するという私の思惑はバブル崩壊、リーマンショックに始まる世界経済大不況によって完全に打ち砕かれた。いまや白浜のマンションは二束三文でも買い手がつからず、ステップ償還(私の場合は11年目からステップアップ)で金利が2倍弱に上昇して、返済額の増加は月々1万円程度にのぼる。

 サラリーマン生活を20年きっかりで切り上げ、多少の特技を生かし、フリーで生涯現役を貫き働き続ける、という思惑も完全に外れた。ここのところ、仕事の依頼がパッタリ途絶えた。「もっと若い人達も同様なのだ」と慰めてくれる知人も居るが、明治生まれの母の介護を続けながら、空気のよい環境で老後を平穏に暮らしたい、という願望は今、将に断たれようとしている。

 それでも、座して死を待つ心境には到達し難く、最後の悪戦苦闘のさなかにある。しかしながら、現在何らの見通しも、また画期的な手立てもあるわけではない。だから、先に掲げた『ホームレスの老々介護』というショッキングな表現も、あながちオーバーとも言えぬし、今や、時間の問題かも知れぬ今日この頃の有様だ。

 特に、高齢化の進行する日本では、老人問題は特別な家庭の例ではない。どこの家庭にも何らかの形で存在する。団塊の世代が私の年齢に近付くころ、更に大きな社会問題となることは間違いない。若年も、中年も、いずれ自分自身の問題として決して避けて通ることは出来ない道だ。自分と密接に関わる重大な問題として、今から真剣に、かつ具体的に考えを練り、解決の手立てを講じておかないと、その先は自滅と地獄しかないだろう。

2010年10月3日日曜日

国民を裏切るスローガン!

 経済評論家の内橋克人氏は著書『もうひとつの日本は可能だ』二章”幻だった「約束の大地」の中で「現実」無縁の政治の表題の下、国民を裏切る「政治的スローガンと、やがて到来する現実がいつも違う。夢を与えるスローガンとともに採用される政策、その果てに出現する現実によって国民はいつもいつも裏切られてきました。現代も過去も変わりありません。」と述べ、次のような具体例を挙げている。

 * 大東亜共栄圏を築くための国家奉仕義務とされた戦時国債が、敗戦後ただの紙くずとなってしまった事例。


 * 五族協和が唱えられた、まさに「約束の大地」に向かった満蒙開拓団の人びとの体験。現実には中国人の農地を奪うことであり、敗戦後に彼らが遭遇した危難、悲劇の具体例の一つが残留孤児問題である。

 * 戦後も同じようなことがくり返されており、バブル崩壊後、宮沢喜一内閣が打ち出した「生活大国論」の事例。

 住宅金融公庫のローン返済方式についての”ステップ償還”によって、ごく普通のサラリーマンが年収五年分でマイホームが買える時代にしようというスローガン。それは、住宅金融公庫のローン返済を当初五年間は軽くするが、六年目からは返済額が跳ね上がる、という仕組みであった。

 返済額のハネ上がるステップ償還の六年目にはあなたの賃金は上がっている、安定した雇用環境のなかで働いていれば給料も上がる、という話が、実際にはどうなったか?

 ローン返済額が跳ね上がるころ、本格的な賃下げ、リストラ時代に突入した。そのうえ、購入した住宅の資産価値はいまや「半値八掛け二割引」と下落した。いわゆる住宅ローン破産の結果、ホームレスが増加した。(更に続く)

2010年9月19日日曜日

敬老の日

意欲と元気のある高齢者は、長年慣れ親しんだ自宅で、自分にできることは自分でやり、それがまだ可能である、と認識することで生き甲斐を持つことが出来る。そして、それを持続することで過剰な介護を回避し、寝たきりになったり、急速な老化や痴呆症状の進行を阻止できるものである。

止むを得ない場合を除き、老人ホームに全面的に頼る必要は無くなる。

勿論、介護する側も高齢者の場合、在宅介護を補助して貰えるヘルパーの存在は無くてはならない。

具体例を挙げれば、99歳の母親を入浴させるには、70歳の半ばを超える私たち夫婦では腰を痛めたりする危険があり、若いヘルパーさんの助けなくしては困難である。

被介護者の意欲を高めながら在宅介護を続けるには、高齢の家族と派遣される若いヘルパーとのコラボレーションが相俟って初めて上手く行く。
従って、生き甲斐を持って被介護者が毎日を送るには、その生活環境が重要な意味を持つ。

私の母の居室には、簡単なキッチンを備え付けてあり、遠赤外線の機器を使用して簡単な煮炊きは可能であり、今でも朝、昼は母が自分の好みの簡単な食事を摂っている。夜の食事だけは家人が調理、提供している。

冷蔵庫や電子レンジも自室にあるので、母は自分の好みの飲食がいつでも可能である。

勿論、材料の買い出しは我々老介護者やヘルパーが行っている。

99歳の母の願いは、食事と排泄は可能な限り自分で処理したい、と言うものであり、今のところ食事は70%、排泄は100%希望通りに達成されている。

無論、それに対応しうるように、母専用となった1階のトイレには手すりを設けたりしてある。

寝た切り老人を減らすには、被介護者本人の意欲を高めることが最も重要である。その為には、それを実現しうる設備や環境が求められる。そしてそれには相応の負担が必要となるが、現実には同居する家族の負担となる。

自分を産み、育ててくれた父母のためなら、当初からその負担を免れようとする子供達が居るとは考え難い。しかし、経済的あるいは自身の高齢化により、特に我が国の現状下では、思い通りに行かなくなって来た人々も決して少なくない筈だ。

私自身が今、その深刻な問題に直面する破目となった。何が敬老か?何処が敬老なのか?の思いを強くせざるを得ない。(次回に続く)

ご無沙汰しましたが、戻って来ました

Twitterでは短すぎるので、ここで十分に書いてリンクさせようと思う。

今や自分は生きるか死ぬか?の瀬戸際に追い詰められつゝある。いずれにしろ消え去ることは間違いないが、このまま押し潰されて、温和しくくたばる人間でもない。

無論、この問題に自己責任がない、とは言わぬ。

しかし、内橋克人氏が指摘される”幻だった「約束の大地」(文春文庫『もうひとつの日本は可能だ』二章参照)の、我が国の責任について口を閉ざしたまま人生の舞台から退場するつもりもない。

簡単に解決するような問題では無いだろうが、発言の機会も無いまま見棄てられ、朽ち果てて行かざるを得ない、多くの人々を代表して意見を述べて行こう、と思う。社会に波紋を及ぼす問題提起を行った上で、死んで行こう。

その問題とは、自分自身にとって火急の件であると共に解決せぬまま放置されている潜在化した高齢者問題である。

これについて、具体的かつ詳細な状況を順次記して行くことにしよう