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2010年12月27日月曜日

「一若者からの応答」への返信


Y.A. 様

 12月例会に届けて頂いた小冊子「一若者からの応答」ありがとう、私の個人的感想を言わせて貰えば、大変嬉しいです。文字通り「詩をきっかけとして考える会」に発せられた若者からの応答と考えて良いなら、私はこのメッセージを確り受け止めたい、と考えます。このことについては、もっともっと書きたいし、私が適当と考える人達も加えて更にY.A.さんや、同じ考えの若い人達にも参加して貰って直接言葉を交わせる機会を持ちたい、と思います。

 その前に、先日ちょっと耳打ちした詩の話をしましょう。あなたが朗読してくれた金 時鐘さんの(確か?)「化石の夏」でしたか、あれと内容や方向は違うのですが、私の感覚ではある一点で共通の視点を感じた詩があるのです。それはジュール・シュペルヴィエル(国籍はスペインのようですが、生まれたのは南米ウルグワイだそうです)の『動作』とタイトルされた以下の詩です。

     うしろをふり向いたその馬は
     誰も見たことのないものを見た
     それから彼はユーカリの木のこかげで
     また草を食べつづけた

     そのものは人間でもなく木でもなかった
     一頭の牝馬でもなかった
     木の葉の上で 練習中の
     風の思い出でさえもなかった。

     それはこの馬より二万世紀も前に
     もう一匹のある馬が おなじ時間に
     急にうしろをふり向いて
     見たそれだった。

     それは
     人間も、馬も、魚も、虫も
     誰ももう見ることのできないもの
     この地球が、腕もとれ、脚もとれ、首もとれ
     彫像のかけらになってしまっても。


 私は、それ(共通の視点あるいは感覚)を第3連に見るのです。耳で一度聞いただけなので、はっきりとした自信があるわけではないのですが、金 時鐘さんの「化石の夏」にも一瞬で、気の遠くなるような長い時間の隔たりを感じ、それを表現した個所があったように思うのです。そして、もしかしたら第4連の「...誰ももう見ることのできないもの」に至る部分にも何か共通項を感じ得るように、私には、取れたのですが...。


 12月26日付の朝日新聞に、記者が「弧族」と造語して、一面に「死んでも独り」と大見出しを付けていました。

 小冊子中にあった、雨宮処凜さんの発言については全面的に納得です。”反貧困 脱「敵叩き」を”の大澤信亮さんの文章にも賛成です。

 私は、この人たちの言う今の若者の閉塞感や目的喪失感は、実はこの弧族と名付けられた高齢者たちが直面している問題とも、ある部分で共通するものがあると感じて居るのです。スタート地点から恵まれた、違う場所に立っていた一部の若者と、そうではない多数の若者たちが存在するように、大企業に勤め、いいタイミングで優雅な年金暮らしに入った恵まれた高齢者たちと、生活保護に近い、国民年金の受給資格しかない中小企業出身や自営業の高齢者たちの存在は、若者たちの構図と少なからぬ類似点があります。今の大多数の若者たちの持っている「社会のせいではない、自分が悪い」という意識を、実は弧族や弧族になり掛かっている高齢者たちも同様に持っている、と思います。そして「自分が必要とされること、意味のあることに関わっているのだ」という実感を持てなくて、無力感に陥っているという点でも一致しています。

 これらの人達(若者も高齢者も)は能力がないわけではないのです。細やかに暮らせて、他人のためにも役立つことや、意味のあることに関われる道筋さえ見つけられゝば、人は人間としてのプライドを持つことが出来、弱いものには手を差し伸べようと、心の余裕も勇気も出て来るものです。私自身も恵まれた高齢者ではなく、むしろ身近な問題すら抱えているのですが、それでもこの閉塞状態を齎し、若者たちや弧族同類高齢者たちを、喪失感と無力感だけの荒れ地に放り出したままであってはならない、と考えております。私のアイデアは、これらの若者たちと、これらの弧族高齢者たちがお互いの弱点乃至欠落部分を補完し合えるような場と方向を提供できないか?ということにあります。我々の会の常連のT.Y.さんも、私と全く同じではないかも知れませんが、似たような方向へのお考えを持って居られるように、私は感じて居ます。

 朝日新聞記事でも指摘していましたが、実は超高齢化と単身化(結婚しない若者たち)の問題は、日本人全体に関わる問題であって、今現役で日本の活動の中枢を担い、結婚して子供を育てゝいる(これらの問題とは無関係と考えている)世代といえども、決して無縁ではない、ということです。人は、自分がその立場にならないとなかなか実感できないものですが、時は直ぐに流れ、このまま放置すれば、彼らも、更に深刻な状態となった不毛の地に踏み込まざるを得ない事態になるのです。日本全体が超高齢化社会に入り込んで身動きが取れなくなる前に(もう、なりつゝありますが...)、今すぐにでも、希望の灯りが仄見えるような仕組みを作って置かねばなりません。そのためには、若者たちの力が必要ですし、あなた方はそのために十分に役立ち得るのです。「人のためになる、有意義な作業に関わることは、先ず自分自身のためにも必要であると共に、それは誰にとっても他人事ではない、結局は自らに関わる問題である、という正しい認識が必要です。

 どんな形で具体化するか?皆さんの(喪失感に苛まれる若い人達からも率先して)ご意見を集め、一緒に考えてみたい、と思います。その勇気を、あなたの「一若者の応答」から頂きました、有難う。また、どこかでお話しゝましょう

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