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2009年6月11日木曜日

第二の故郷

 毎日散歩するこの海と空の、ごく傍に自家があり、そこが今では第二の故郷となっている。

 時々刻々、毎日変化する。
 同じものは二度と無い。常に一期一会である。空も雲も、海の波も風も、そして人も一度しかない時と場所を通り過ぎて行く。

 全ては移ろい、幼い者も年を取り、瑞々しい若葉もやがて紅葉を経て枯れ落ちる。

 エネルギーに満ちた若さに着目すれば、寂しい限りという見方も当然だが、終りの無い生き物の営みがあったとしたら、それは一方で醜悪で、救いようのない世界とも言える。

 肉体を離脱した魂は西方を目指し、いずれは永遠なるものを観るのだろうか。

 一方、形ある生き物も、人間を含む生き物を抱擁している地球そのものも必ず消滅する時が来るのであろう。それを悲劇と観るか?当然の帰結と受け止めるべきか?

 いずれにせよ、限りある生命は今を大切にするより他に道は無かろう。

 たとえ、明日雨が降っても、風が吹いても、蒸し暑い一日であろうが、そのときしか存在しない時間であることを忘れずに、己の生を全うすることにしよう。

2009年5月29日金曜日

第一の故郷

 生まれ育ったのは東京である。それも半端な年月ではない。普通のサラリーマンなら定年を迎えるくらいの年齢まで生活し続けたのだから、誰が何と言っても第一の故郷以外の何ものでも無い。

 この写真は、5月22日夕刻、新宿伊勢丹横に設けられた「花園稲荷神社」の祭準備のための、新宿三丁目町会仮事務所である。

 次の日に、或る東京都立霊園内の墓地で営まれる亡父五十回忌を取り仕切るために、海の傍の街からこの第一の故郷へ戻って来た、というわけだ。

22日は朝、JR和歌山駅9時48分発の「オーシャンアロー8号」に乗り、夕方5時半にはここで、この写真を撮った。伊勢丹では、持参するのを忘れた封筒を補充し、その後、新宿ピカデリーで予てから観たかったクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』に行こう、と計画していた。

 イーストウッドがどうしようもない頑固爺を演じている。「どうしようもない」という意味は、「箸にも棒にもかからぬ」鼻つまみ者という訳では無い(多少はそうかも知れぬが…)。正確に言えば、己の生き方に苛立ち、他人に対し「どう適切に対処して良いのか?分からぬまま、殻に閉じこもらざるを得ない」孤独な老人を巧みに表現している。

 イーストウッドの実年齢は私と大して変わらぬ、彼の方が若干年上だが…。

 彼の演じる老人はただの頑固爺ではない。正義と人情、そして矜恃を有する男なのだ!男はどう生き、どのように死ぬべきか?心にズンと来る作品だ。(私の住んでいる街では上映されていなかったので、ここまで観に来ることになった)

2009年5月17日日曜日

原始の血

 古座川の一枚岩である。

 国指定の天然記念物の大岸壁で、高さ100メートル、幅500メートル。見る者すべてを圧倒する。 この一枚岩を見上げる河原で、司馬遼太郎は古座で知り合った人達から山菜をご馳走になった、という。

 
街道をゆく』<熊野・古座街道>には、「夜などひとりでこの河原にいればこの巨大な自然物の威圧をかわすのに、よほど無神経にならねばならないに相違ない」とある。

 実際にこの岩の前に立ってみると、思わず、時空を超えた素朴な畏敬の念を覚える。身体の中の原始から伝えられた血がざわめくのである。

2009年5月4日月曜日

紀州東照宮の和歌祭


 江戸時代元和八年(1622年)に始まったと言われる紀州東照宮大祭の渡御(和歌祭)が5月3日行われた。中でも知られた神輿おろしの様子が左の写真。

 108段の急な階段を男達が勇壮な掛け声と共に神輿を揺らしながら下ろす、というもの。

 大河ドラマ「八代将軍徳川吉宗」にも登場した。

 地上に降りた神輿に従い、神官や巫女の他、雜賀衆など武者や舞姫に扮した人々、母衣をつけた男達の渡御行列が片男波海岸を練り歩いた。
 

 別添の動画もお楽しみ下さい。


2009年5月2日土曜日

「革命」という言葉を識っていますか?

 手持ちの写真も色々ある。それに合わせて書くことだって色々ある訳だ。 有り過ぎて却って書くのが遅れてしまった。

 この写真は4月28日夜、和歌山県民文化会館小ホールで行われた斎藤貴男氏による講演会場で撮影したものだ。

 「平和と平等をあきらめない」ために憲法9条の戦争放棄や25条の生存権の遵守が今こそ強く求められなければならない、というのが氏の講演内容だった、と記憶する。昭和33年生まれの斎藤貴男氏と同じく33年生まれ、と言っても小生の方は西暦の1933年生まれだから、早い話、1/4世紀の違いがあり、彼の両親と私は多分略同年ではないだろうか?それでも彼の話の内容について私は略同意見である。講演後に設けられた質問時間に私は彼に訊ねた。この講演内容を具体的に実現すべく我々は何を為すべきか?一体我々に何が出来るのか?

 私の印象では回答は控えめで具体性に欠けていたように思える。しかし、その答え様から、私は彼があの場で発言できなかったことを逆に感じ取ることが出来た。彼自身、こんな話の内容だけで、望ましい方向が実現できたり、世の中が変わり得るとは思っていないに違いない。Webは不自由だ。書籍なら、そこまで遠慮する必要はあるまい。

 また、今のTVもメージャーのマスコミも、本来のジャーナリズムとして正しく機能していない。スポンサー(営利事業会社、つまり資本家)や政権に居座った政治家共に都合のよいように、やりたい放題に利用されているに過ぎない。

 この状態を打破すること!それしか解決の道は無い。大多数の庶民が、そのような読み方が出来るようになるまで(そんな時が果たしてやって来るか?私見では可成り悲観的だ)、この根本的問題の解決は無かろう。

 人間は愚かである。何世紀経っても一向に進歩の兆しが見えない。尤もそれでよいのかも知れない。人類(ホモ・サピエンス)だけが繁栄する必要なぞ、元々有りはしないのだから、地球や宇宙や他の種の立場からしてみれば…。

 何とか楽観的なことを書いてもみたいのだが、正直に言えば、今のところ、絶望と虚無しか私には見えない。


 昨日、1993年秋に出版された筒井康隆著「断筆宣言への軌跡」を入手して読み始めた。この文章を投稿する一つのきっかけとなったことは確かだ。



2009年4月19日日曜日

幻だった「約束の大地」


昨日は「詩をきっかけとして考える会」を、隣接する市の、JR駅前「ヴァンサンカン」で実施した。

月例会であるが、もう優に丸一年を経過している。

今、取り上げているテーマは内橋克人氏が提示している「競争と共生」であり、4月例会では氏の著書中の『幻だった「約束の大地」』を中心に「現実」無縁の政治、庶民を裏切る政治的スローガン、日本人の「熱狂的等質化」等について、身近な具体例を挙げながら論議した。

「きっかけ」は、無限の拡がりを招来する。それが狙い、とも言える。詩はあらゆるところに埋蔵されている。それを見いだすのも、また見過ごすのも、その詩人の器量次第と言わざるを得ない。

一方で、詩はきっかけとして、活かされる得るもの、と考えられる。人間として、それなりに意義を保有しつつ生き抜いて行くためには意識して学び、磨き抜いた己の物差しをもって充分に思考を重ねゝばならぬだろう。

会はそんな思いから立ち上げられ、賛同者の協力で続けられ、回数を重ねている。

2009年4月16日木曜日

西行庵


願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」


その願い通り、西行は文治六年(1190年)二月十六日に寂した、という。

櫻の花が大好きだったのだろう。

「仏には 櫻の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」

このが終の栖というわけではなかったようだが、このように狭く、気密性の乏しい山深い一軒家(というより小舎)に一人暮らしていれば、冬は非常に厳しく、また寂しく、心細かったのではなかろうか。

それでも仏道にひたすら修行し、歌の世界に徹する喜びを感じて居たのだろうか?

不信心な無頼男には、到底伺い知れない異質な世界…?

それでも、櫻の季節には、薄桃色の花吹雪が、庵の前で乱舞する日もあったろう。

俳句を好む向きが圧倒的に多いようだが、私は和歌の人間臭さに、遥に惹かれている。

2009年4月13日月曜日

日本人の櫻


吉野山の櫻です。

これとは別に、11日付朝日新聞朝刊にヘリコプターから撮影した吉野山の俯瞰写真が掲載されていました。


「春 追い越し日和」とキャプションされ、『約3万本で知られる吉野山(奈良県吉野町)の桜も見頃を迎え=写真、本社ヘリから、山本裕之撮影=、大勢の花見客でにぎわった。町によると、標高が低い「下千本」と「中千本」が満開、「上千本」が7分咲き、頂上付近の「奥千本」は開花直前。』とあります。

上に載せた写真はそのヘリコプターの音を聞きながら地上で撮ったものです。
その日は、引き続く記事にも見られたように、大変な人出で、忘れかけていた東京の人混みを思い出しました。

東京は生まれ育った故郷ですから懐かしく、お気に入りの都会なのですが、この人混みだけは我慢出来ませんでした。

今はその悩みからは解放されていると言えます。

2009年4月10日金曜日

金色の海


昨夕の散歩では金色の海を撮ってみました。

黄金伝説― 古来より人間は黄金に憧れ、黄金を求め、挙げ句の果てに黄金を奪い合って争いを続けてきました。

今だって同じです。ブッシュ前大統領の理不尽なイラク侵攻、破壊作戦も石油権益の確保に重要な原因のあることは改めて指摘するまでもありません。

人類はちっとも進歩していないように思えます。

そして、かく申す筆者にも進歩がみられません。”黄金が欲しいから”です。
仕事をしないとお金がないし、仕事をしようにも景気が落ち込み、依頼が停止したままだからです。

かと言って、力のない者をねじ伏せて問答無用で毟り取ったり、暗闇で突然襲いかかって強奪するには、力もないし、そんな馬鹿げたことをする気にもなりません。

それより黄金の海の砂金を手にすくい取り、貨幣とは交換できぬ自然の黄金の輝きを堪能できる身の幸せを噛みしめて過ごすのが、身の丈にあった暮らし、というものかも知れませんね。

2009年4月6日月曜日

卵の黄身


卵の黄身ではありません。


デジタルカメラで撮ってみると、太陽はなかなか丸く写りません。眩しい光の帯になったり、眩しい光が不定形に写り込んだりすることが殆どです。


それが今日はこんな形で撮れました。


卵の黄身と言えば、最近は卵かけご飯を食べなくなりました。それは矢張り、鳥インフルエンザとかあるし、出所のはっきりしない卵しか手に入らないからです。

昔は自家で飼っている鶏とか、知り合いの所の鶏が産んだ卵が手に入ったので、醤油を垂らした生卵を温かいご飯に掛けて食べるのが、楽しみだったし、なかなか美味しいものでした。

その上、父は、今私が住んでいる地方の出身者でしたから、きれいな海から新鮮な魚が手に入りました。


マグロのぶつ切りをわさび醤油で処理したものを、割込んだ生卵の中に放り込み、これをアツアツのご飯にかけ、香りのよい海苔を振りかけたものは、こうして書いていても生唾が湧いて来ます。

特に、旬の鰹でこの料理を試みる際、生のニンニクの芽を刻んで入れ込む。これを親父は「カチご飯」と呼んでいました。その言葉の意味も、どんな漢字を当てるのかさへも、今となっては分からないのですが…。


ただ、味だけは絶品で決して忘れることは出来ません。

『ああ 本当の生卵の味が懐かしい!』



2009年4月5日日曜日

サルダーナ


昨日は東急イン「アゼリア」で親しい人の主催する「サルダーナ」の集いが開かれた。

『“サルダーナ(SARDANA)”の踊りは、輪をつくり、大人から子供までみんなで輪になって手をつなぎながら踊るものです。衣装はとくになく、普段着でみんな踊っています。その歴史は古く、起源は古代ギリシアにさかのぼるとも言われています。サルダーナは現在まで踊り伝えられてきた、カタルーニア人にとって大切な文化の一つなのです。』

グループ名の由来は、そこから来ており、楽器を中心とする普段着の発表会を食事をしながら楽しもうという趣向である。

あいにく開催時刻直後から降りだし、この会場の窓を通して望める、美しい城の天守閣を取り巻く満開に近い櫻花も雨に打たれ、どんよりした曇り空の下でくすんでいる。

それに引き替え、会場内は和やかな雰囲気の中で普段着の演奏が繰り広げられた。楽器はピアノ、琴、ハープ、フルート、そして歌唱、ピアノの弾き語りまである。

プロが駆使する高度なテクニックを緊張しながら楽しむのもよいが、こうした普段着の演奏会を大勢のアマチュアが繰り広げるというのも、その国の文化的レベルを高め、裾野を広げるために大いに役立つ筈だ。

2009年4月3日金曜日

穏やかな一日


これは昨日の夕陽の写真とほぼ同じ場所から撮影したものです。


一瞥すれば、暖かく平和な日に見える。


だが、世の中不況の風が吹き荒れているし、ガザ地区ではイスラエル入植者の子供が殺害された、という(一方で、その何倍ものパレスチナの子供達も傷つけられ、殺されているが…)。


主要国が参加した金融サミットも終わった、というがいつ?その効果や変化がもたらされるのか。


北朝鮮と日本の当局者たちはカリカリと応酬しあっているようにも見えるが、もしかするとこれも対象者を想定して、ジェスチャーによりアピールしているのかも…。


戦中、戦後を生き抜いてきた者からすると、世界も屈折して見えてくる。面白いといえば、こんなに興味深い時代も少ないかも知れない。

2009年4月2日木曜日

今日の足跡


自他共に認めざるを得ない老人です。そして朝に夕に海を望みながら散歩します。