My Ads

2010年10月29日金曜日

貴所感に対する私見-2

「大義」と呼ばれるものがあります。城山三郎にも「大義の末」という作品があります。私が関係する毎月の例会で、現在、この本を下敷きにして「大義」、そしてその「大義」の末に齎されたものについて、考えを述べ合っております。既に読まれたかも知れませんが、城山さんの自伝とも言うべきこの作品の主人公が純粋な気持ちで、自ら予科練を志願し、どのような経験をし、周りの庶民共々どのように悲惨な結果を味わうことになったか?

 城山さんも私も軍国少年ではありましたが、決して戦争を好んだり、戦争を容認する立場にはありません。にも拘わらず、そういう人達でも何の疑いもなく、そう信じて行動したという事実!それはどうしてなのか?その背景の恐ろしさを識り、そのような状態に陥るのを阻止することこそ、何にも増して肝要だと考えます。

 「大義」とは何か、定義と言うほど大袈裟ではなく、「大義」について各人の持つイメージを訊いてみました。大方の意見は「何かいかがわしいもの」「胡散臭いもの」でした。私の意見は誰でも、それを持ち出されたら正面切って反対できないものであって、それ自体には悪意は存在しないものの、それが権力者や為政者の恣意によって、曲げられて利用されると、とんでもない災厄を一般庶民に齎すもの、くらいに考えていました。

 私は、どちらかと言えば個人に関わる「義」と、組織が必要とする「大義」の区別を曖昧にしていたように思います。ここで、南原繁氏の「人間個人の完全な自由の確保」という言葉が重要な意味を持ちます。貴方の言われる『民主的社会人の根本は”独立した個人として自分の意見を持ち、組織には与しないことだ”』という意見には全く同感です。

 作品「大義の末」の主人公が信じた大義は、当時のベストセラーだった杉本五郎中佐の表した「大義」で、これは尊皇精神に基づく忠君愛国の書でした。時の権力者や軍部の腐敗、軍紀のゆるみなども手厳しく批判(但し、その個所は伏せ字とされて出版)した純粋な内容を、青少年達は自分たちの生き方の指針としたのです。その「大義」を信じ、率先して戦のために自らを投じた様子を、私は権力者に巧みに扇動、利用された、と観ていました。(更に続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿