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2011年8月15日月曜日

<一日一書>(65)「人(民族)と国家」


『今日は日曜日。
天気は晴れ、午後になって風吹く。』


さて、今日の話を始めよう。

『盆を過ぎると、クラゲが出始める』という言い伝えは、例年の経験からして、先ず当たっている。大分前のことだが、クラゲに顔面を激しくやられて酷い目にあったことがある。腫れて熱を持った水ぶくれも長男の結婚披露宴までには、どうやら落ち着くか、と思えたが、実際には癒えた傷痕に現れた、太い瘡蓋の痕が、恰も出入りで負傷したヤクザの顔のように残って、誠に往生したことがある。

それで、今日が最後になるか?とも思って、夕方には結構風が出て来たが、海に入り、いつものようにテトラポッドの直前までを往復して帰って来た。

今夜は二つのドキュメンタリーを観た。私は学者ではないので、文献を挙げて綿密に論ずることは出来ないが、今まで見聞し、経験した資料や情報に基づいて自分なりに、直感的に考えて来ている。

ドキュメンタリーの一は「圓の戦争」、そして二は「砂漠の中の日本庭園」である。これら二作品からの印象は、私が常々考え続けていることを裏付けてくれた。

これまで、ずっと、私には「国家」というものは、何処かいかがわしいもの、というイメージしかない。前者のドキュメンタリーは将にそれを示している。軍部が中国で戦争を継続し続けるために、大手銀行を巻き込んで、他人(他国)の褌で相撲を取った、という一般庶民には知らされなかった狡猾で、無責任な行動。つまり、戦争に必要な軍費を戦地で調達し続けるという暴挙。その国の経済が破綻しようが、一向に顧みることなく突き進み、挙句の果てには膨大な借金を自国(つまり、日本の一般市民)に破廉恥にも未だに残し、勝手に破滅したという事実。

個人や民間の思惑では、実現出来ないことを、国家という枠組み(組織)を作り、一握りの権力者がそれを利用(悪用)して、破廉恥で無謀な行動に突っ走る。そのような場合に、国家は、本来実現し得ない、あるいは実現させてはならない役割を果たすためだけに存在する組織(悪)、としか考えられないし、その組織を悪用する者にとって更に好都合であるのは、失敗の原因を実際の関係者にではなく、組織の故とする隠れ蓑として利用することさえ出来ることだ。

後者の記録は、戦時中、自由を標榜する米国で、日系人という事実だけで砂漠の中の強制収容所に隔離された人達(個人)の抵抗と矜恃の真実である。これを観て、人を支えるのは、決して国家などではない、と改めて確信させられた。財産も自由も理不尽に、一方的奪われた日系人たちが、その密かな抵抗の気持ちと、共通の連帯感を持って不幸に立ち向かう誇りの基(もとい)となったものは何か?それは「文化」である。日系人たちは砂漠の中の殺伐とした収容所の中に、日本文化の心を伝える日本庭園を建設した、という。

これは、国家とは無関係である。民族、日本民族としての誇り、民族が共通に所有して来た文化の発現を試み、それを実現させたことによって、自信、誇り、そして安らぎを得ることが出来た、ということだ。

私は日本の国家は今でも信用出来ない、と略確信しているが、一方で、自分が日本人であることには誇りを持っている。それは、世界中に誇ることの出来る日本文化の高い価値の故である。これらを創出し、築き上げ、伝承してきた日本民族の優れた資質には胸を張って良いし、その末席を汚す一員であろうとも、日本民族の一人であることが、私の生き甲斐の根底にある。

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