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2014年6月30日月曜日

今日のコメント


19:00 2014/06/30(月)-晴れ-

  私の住んでいる国の政治状況も社会状況も、現在余り良い状態とは言えないが、世界中に目を向けてみると、それどころでは無い、比較にならぬほど危機的状況に置 かれている人々が信じられないほど数多く存在している。

  ヒトという種は、本当にそんなに進化しているのだろうか?いにしえのヒトが「火」を手に入れて以来、人間の暮らしは確かに飛躍的に進歩を遂げたのかもしれない 。しかし、一方で、或るとき人類は、大きなボタンの掛け違えをしてしまったに違いない。

  この地球の繁栄と荒廃は、余りにも極端過ぎる。私は時に、救い難い虚しさを感ずる。  それにも拘わらず、私の人生は楽しい。

    新しく手に入れて調整しながら活用しているパソコンの前に座り、操作していると、自分が今、この瞬間にも全世界と繋がっているという実感がひしひしと伝わって 来る。

  今、YouTubeの音楽を聴きながら、その曲をダウンロードしている。私は、既に美しい音楽と映像ばかりで無く、数多くの文章も保有している。これらを気ままに観 たり、読んだりするだけでも相当な時間が必要で、恐らく生きている内に、その全てを読み、鑑賞し終わることは殆ど無いのかもしれない。そう、将に「壮大な無駄」 と言わざるを得ない。まあ、言い換えて「愚か」というのが、当たっていよう。しかし、一方で自分は豊かな気持ちでいられるのだ。

  私には、「やることが無くて、退屈だ!」という状況は全く理解できない。

  やりたいことは、次から次へと出て来るのだが、実行の方が追いつかない、というのが現状だ。死ぬまでこの状態であって、しかも残された時間は、もう長くない筈 だ。

  だから、と言って急にどうこう出来ることも無いので、このまま…、それでも出来ることはなるべく工夫を加えながらやって行くことしか無い。それが楽しいと言え ば、楽しい。

  実際、今更じたばたしたところで何程のことがあろうか?日々、日常の雑事に追われながら、それでも牛車の歩みのように、とぼとぼと夕暮れの道を進むだけである 。

  それは淋しい、と言うより、むしろ楽しいとも言えるのかもしれない。

  自分の人生は、日本という東海の島国の二十世紀も半ばに至らんとする頃から二十一世紀初めまでの期間に亘り、多様な歴史的局面に身をもって立ち会うことの出来た、なかなかに興味深く 、捨てがたい人生だったとも言えるのだろう。その辺りのことも、これから折に触れて訥々と書いて行こう。

2012年8月29日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内


「詩をきっかけとして考える会」9月例会
 常連メンバーKさんのご提案により8月を夏休みとしたのは、大正解であったようだ。この日中の暑さの中を出歩くというのは、高齢者ならずとも可成りの負担であろう。

 一方、それを良いことに、次回まで1ヶ月余りの余裕がある、と他のことにかまけていたら、あっという間に9月例会の期日が迫ってきたので、先ずそのご案内を…。

 7月例会の出席者はK、 Tの各氏とJの3名であった。会の次第は前回のご案内でも触れた、前田 保氏により書かれた国家についての試論テキストを利用することにし、専ら各項目の内容について逐一確認して、今後の論議の足掛かりとすることにした。9月例会では、各人が基本的に、この試論中のどの立場を取るか?また、必要があれば、それにどのような修正や変更を加えたいか等を中心にして話を進めたい。

 
 更に、Jのブログ(ぶらいおんの詞藻アンソロジー http://buraijoh.jimdo.com/ )でも紹介しているが、7月例会翌日にTさんと共に参加したTwit No Nukes 和歌山主催の「第一回原発さよなら行進」の報告(行進では、K弁護士、住基ネット訴訟で共闘したE.K.さん、バグースの元女性スタッフ(氏名不詳)等とも出会った)、それに加えて「子どもたちの未来と被ばくを考える会」主催、7月29日の安田節子氏の講演次第を、参加できなかったJに代わり出席されたTさんに簡単に紹介して貰いたい、と考えている。

 その他の計画中の活動予定についても、時間があったら取り上げたい(文責:城 久道)。

 9月例会は下記の日時、場所とする。(尚、土日、祭日に限り開放されている紀陽銀行の駐車場は利用出来ないので、車利用の方はご注意の程)

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 9月5日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

2012年7月16日月曜日

「詩をきっかけとして考える会」7月例会案内


 前回皆さんにお送りした6月例会案内第120615号の内容に触発された、と言って休刊中のPAM同人であり、大学の先生であるT.M.氏から国家について書いた試論が送られて来た。実証的裏付けを伴っていない場合もある、と断りはあるが、私の判断ではなかなか要領よく纏まっており、我々が勉強のため使用するテキストとしては却って適当であろうと考え、別に報告する7月8日の東京ミーティングで出会った際、利用の許可を求め、その後OKの返事もメールで既に得ている。

 更に、取り上げたいテーマの種はこの他にも色々とある。
二三の例を挙げると、☆長野県中川村議会6月定例会における、高橋昭夫議員からの「国旗と国歌について村長の認識は」という一般質問に対する曽我逸郎村長の答弁内容や☆和歌山市で活躍される金原弁護士の発行するメルマガ金原1000号到達記念号におけるテーマ「原発と憲法」である。そのメルマガ中には次のように述べられている。『このテーマはまさに、私が現在追いかけている2大テーマであることは、メルマガ読者の皆様にはご説明の必要もないでしょう。』とある。

 これらの内容は、それこそ私が考え続け、皆さん方と話し合い、
勉強し続けていることに全て重なり合う問題である。納得しうる答えなぞ出る筈の無い程大きな課題であろう。しかし、色々な考え方を提案するきっかけとは成り得る筈だし、それらを広く、分かり易く老若男女を問わず幅広く浸透させることに努力を傾け、更に願わくば若い、これからの世代の人々を触発させ、自分たちで考えるきっかけを与え得れば、望外の幸せだし、私の無謀な仕事にもなにがしかの意味が生ずることになるであろう。再刊予定のPAMの存在もその延長線上にある。

 11歳年長の先輩詩人山田 博氏を失った今、
私もこれから10年程掛けて自分なりの仕事の完結に向けて更に精進しようと心を新たにし、東京での更なる飛躍を念頭に置きつつ全エネルギーを傾注しようと密かな決意を抱いている。この会にも、また再刊PAMにも更に歯応えのある論客の現れることを期待したい。

 6月例会の出席者はK、H、
Tの各氏およびJの4名であった(文責:城 久道)。

 7月例会は下記の日時、場所とする。

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」
2階予約席
    日時: 7月21日(土)午後1時30分より
リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

2012年6月22日金曜日

「詩をきっかけとして考える会」6月例会ご案内

 国家と個人の問題を考えて来たが、私の立つ基本的立場と異なる、
最初から国家あっての人生という考え方をする(もしくは、その考え方しか出来ない)人々、すなわち政治家、役人、大方の事業家、それらの組織、その中だけでしか生きて行けないと考える(もしくはその考え方しかしない、出来ない)人々とは、出発点から違うのだということが、今頃段々分って来た。

 国の役目というのは、一応国民の合意を取り纏め、
それを取り付けることだと言いながら、実際にそれを実現させる筈の政治家は一部の人々と結託して利益や利権を漁ろうとする、いかさまな奴ばらが殆どであり、役人はそれら、つまり本当は国民の総意であるべきだし、その筈であるアイテムについて、現実には一部の利益受益者の要求に応えるべく工夫して規制を掛けその規制を拠り所として事業や活動を展開して収益を上げる組織、そしてその組織を維持、継続させることにより雇用を創出し、その雇用によって生活を維持する大方の一般庶民から成り立っている、と言うことになるのであろう。

 従って、考え方として、
そのような概念を基底に置かない私のような立場は、一般的には、若しかすると、可成り違和感を生ずるものなのかも知れぬことにようやく気付き始めた。そういう自分は可成りオメデタイ部類の人間ということになるのか

 さて、5月例会は出席予定のK氏が現れず、
代わりにH氏が参加されて、出席者はT氏およびJを加え、合計3名。T、J両名の選んだ詩を朗読しつつ紹介した。ナーズム・ヒクメットは日本でも知られるヒロシマで被爆した七歳の女の子を題材とした「死んだ女の子」の他、米国によるビキニ環礁の水爆実験で被爆した福竜丸の乗組員をテーマとする「日本の漁夫」など早くから原水爆の被害について詩を書き、また反戦活動を続け、長らく投獄されていたトルコからロシアへ亡命し、彼の地で没した。被害を受け続けた日本人よりセンシティブに原水爆や延いては原子力エネルギー利用の危険性について発言し続けた。この日本で発生した原発事故の被害を識ったら彼は何と言うだろうか?

 5月例会新会場は、従来のように一室借り切りではないが、
アイルランド系のB.G.さえ気にしなければ、割合静かで私的にはギネスを愉しむことも出来、特別問題は無いと考える。

 そこで、6月例会は下記の日時、場所とする。


 テーマは特に提案が無ければ、
2012年5月28日毎日新聞夕刊に掲載された「九条の会」事務局長/東大大学院教授小森陽一氏の意見を紹介しながら話を展開したい。
 私見では現在日本が直面している諸問題は、
憲法九条に対する人々の見解を探ることによって殆ど説明を付けられる、と考えている。

 一方、今朝の朝日新聞朝刊”耕論”オピニオン欄タイトル「
再稼働、それでも」の下に音楽家坂本龍一氏の発言の出だしは、こうなっている。『原理や原則についてきちんと議論がされないまま、「論理」ではなく「空気」で物事が決まっていく。そんなこの国のありように、ずっと違和を感じてきました。』
 更に、その結びは、こうだ。『声を上げる。上げ続ける。
あきらめないで、がっかりしないで、根気よく。社会を変えるには結局、それしかないのだと思います。』

 これは将に私の考えを代弁してくれている。


   場所: 紀陽銀行本店裏「トリニティー&ユニティー」2階予約席
   日時: 5月26日(土)午後1時30分より
          「リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
           

2012年5月26日土曜日

「詩をきっかけとして考える会」5月例会開催場所およびテーマ



 前回の5月例会案内第120516号を補足する開催場所はトリニティー&ユニティー2階(Cafe&Pub)と決定しました。場所は雑賀町2番地(紀陽銀行本店駐車場真裏)です。

 会で取り上げるのは、先ずナーズム・ヒクメットの詩です。
各自が選んだ詩を紹介することにします。時間があれば、次は「がれき広域処理問題の背景」を追求してみたい、と思います。

5月例会場所、日時は下記の通り。


    場所: 紀陽銀行本店裏「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 5月26日(土)午後1時30分より
           「リニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

「詩をきっかけとして考える会」5月例会案内


4月レポートの最後は次のように結ばれていた。

 すなわち、『5月の「詩をきっかけとして考える会
の日程案としては26日(土)もしくは19日(土)が挙がっているが、会の理念を正しく理解し得る方々のみの、ご意向次第でヴァンサンカンの会場予約を取ることにしたい。率直なご意見をお聞かせ願いたい。』

 これに対し、大分前からY.
T. ;
T.K.両氏から参加のご意向が伝えられていたにも拘わらず、正式な連絡の遅れたことを先ずお詫びし、差し迫った日程についてのお知らせを優先する。

 5月19日(土)は、コーディネータ城の仕事の都合上、
対応できなくなったので、日時は5月26日午後1時半開始とする。また、場所は少人数が予想されるので、紀陽銀行本店駐車場真裏の喫茶・レストラン"Unity & Trinity"もしくはフォルテ ワジマ真裏に位置する喫茶・レストラン”スイッチ”その他を考えているが、更に若干詰めるべき点があり、正式決定までもう少し時間を頂きたい。

 参加希望者はいつでも適当に出入りして頂くことは従来通り全く自
由であり、特別な制約は無い。ただ、改めてお願いして置きたいのは、参加される際は、事前に送信される「詩をきっかけとして考える会」のお知らせを読み通し、趣旨を了解した上で参加して頂きたい。城のお知らせやレポートが冗長となりがちで読み難ければお詫びせねばならないが、筆者としては注意点や事前に理解を得て置きたいポイントを網羅的に説明しようと努めているので、それが却って取付き難さとなっているのかも知れぬ。しかし、テーマーによってはディスカッションの際の事前ルールを定めて置かないと、限られた時間内では到底収拾がつかなくなるという事態が発生する、と考えた上、敢えて規制しているので、その表現趣旨や意味が理解しがたい場合は遠慮無くご指摘、あるいはお問い合わせを頂き、充分ご理解の上参加されたい。

 特別な条件や制約を設けない場合は、
従来のフリートーク形式で進行することになる。

 さて、5月例会ではトルコの亡命詩人ナーズム・
ヒクメットの作品を取り上げたい。映画”チェルノブイリ・ハート”の冒頭では、彼の「生きることについて」という詩が掲げられ、私はこの詩から強烈なインパクトを受けた(この作品は4月例会においてJが朗読した)。

 日本では「ヒクメット詩集」が中本信幸
編訳で出版されているが、
インターネット上や古書店以外では現在入手不可能と思われる。和歌山市民図書館には収蔵されている事を確認済みである(県立図書館は未調査だが、当然収蔵されているだろう)。
 幸い、土さんと城が各1冊ずつ所持しているので、
各自お気に入りの作品を何篇かずつ選び、これらを紹介し、選定した背景なども語り合うようにしたい。
 そこで、参加される方は成る可く事前にナーズム・
ヒクメットについての知識をインターネットなどで調べたり、望ましくは作品にも目を通した上でお出かけ願いたい。

 また、時間が許せば、池田こみち氏の、
いわゆる放射能がれき広域処理問題を論じた講演の内容をご紹介したい。これは場合により次回以降の例会で取り上げることを検討してもよい。

 それでは、場所については追ってご連絡することにし、
これを取り敢えずの5月例会案内とする。(文責:城 久道)

2012年4月11日水曜日

「詩をきっかけとして考える会」4月例会報告


 先ず、和歌山市と海南市の境界に位置する「温山荘」に隣接する公園で30分遅れの花見の会を、Siさんによって用意されたおでん鍋を囲みながら開いた。空気はやゝ冷たかったものの、花は満開、予想的中の結果であった。隣のグループは「うたごえ九条の会」のメンバーで静岡から参加された女性シンガーを中心に合唱が流れていた。この会に出席されていた金原弁護士とも挨拶を交わし、「子どもたちの未来と被ばくを考える会」のチラシを当方メンバー全員が受け取った。その後、会場を温山荘園洋間に移し、K、H、N、Sa、Si、T氏、Jの7名で「個人(人間)と国家」のテーマについて専らJの見解を述べた。その前にH氏から温山荘海側の立地について或る歌人の詠んだ和歌の碑を何処に建立するかの検討の為されていることが報告された。引き続き、Tさんによりミニハープが演奏され、最後に即興演奏のBGの中、トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「生きることについて」がJの朗読で披露された。

この詩を朗読したのは、次のテーマ「人間と国家」の”人間”の本質は”生命”にあり、”いのち”は、この詩のように”生きる”ことに尽きる、と言うJの見解を具現する目的にあった。他方、少なくとも現存の国家は金そのものを象徴しており、その金も市場原理主義により暴走するままに、原子力エネルギーのように、人間の力では制御し得ない、という考えである。民主主義の模範国家を自負して居る米国の政治も政治家も金にまみれ ており、オバマ大統領がオサマビン・ラディン氏を裁判も無しに殺害し、「正義が執行された」と誇り、こうした公然たる国家による殺人が誇示され、また、それが米国市民に支持されたという事実を、更に米国議会におけるユダヤ資本のロビー活動故にイスラエルのパレスナチ人に対する理不尽な迫害が等閑視されている現実をどう捉えるべきか?

私人が人を殺せば殺人者になるが、戦争が最も代表的な形態であるように、国家が人を殺しても殺人とはならない、のは何故なのか?

ここで国家の執行する「死刑」について、日本は「先進国」の中で、死刑賛成者が突出して多いのは何故だろうか?日本人はそれ程国家の正義を信じているのだろうか?という問題が提起され、メンバー全員に「死刑制度」について賛成か反対かを問うた。反対はT、Jの2名。他の方々は全て条件付きで賛成、という結果であった。この際にも条件についての説明が尾を引いたが、設問は「賛成か反対か」だけを問うているのであり、条件の内容の説明は不要、蛇足と言うことになる。この問いに対する正しい答え方は「条件付きで賛成」に尽き、これで必要かつ充分な要件を満たしている。その条件内容についての説明は、求められた時に別な時点で行えば足りるし、立てられた質問に対する直截な答え以外は全て、夾雑物となり、時間的観点からしても目標達成についての障害となっているのである。

政治学者坂本義和氏は「なぜ、ひとをころしてはならないか」という問いは、論理的な証明で答えられる、また答えるべき問題ではありません。それは、「人間は誰もが同じく生命を持った人間だという感覚」、「他者の生命に対する畏敬の感覚」という、論理や論証よりも根源的な”感性”かかわること、だと述べ、それ故に国家の正義と同列に論じるのは馴染まない、という考え方のようだ。

現在、日本で論じられている「脱原発」問題は、"個人=人間=生命=生きる"の立場から考えれば、即「脱原発」の結論しかあり得ない。何故なら何十万年も先の子孫に問題を残し、地球上の生き物にも悪影響を及ぼさないようにする手立てが無い以上、原子力エネルギーの利用には即中止以外の選択肢は存在しない。

再稼働や不確かな安全性の追求に現を抜かしているのは、将に金に振り回され、金儲けだけが目標である企業やそこから提供される金を当てにしている政治家や、学者や、実業家や、国家権力者達である、と言うことになる。

さて、ここで文章読解力について、皆さんのご意見を伺いたい。

「詩をきっかけとして考える会」3月例会リポート、私の表現中に「これに(投げかけられた質問に対し)正面から応えたのはJ一人であった。」とあるが、この文脈から直ちにJ一人だけが「正論」を述べた、と解釈するような方が、レポートを読んで下さった中に果たして何人居られるだろうか?(一人も居る筈が無い、と殆どの方は考えられるであろうが、実は一人だけ現実にそう主張し続ける人物が居た、という事実と、(私の説明が下手だった故かも知れぬが、その場で私の説明に明快な理解を示された方も余り見受けられ無かったことに、私は今でも驚きを隠せない。理解する前に激しい思い込みで物事を判断するという”老人の硬直した思考形態”と言えば、その通りなのだろうが、私自身が勉強する場である「詩をきっかけとして考える会」では、そこまでの不毛の無理解や誤解に対応する余裕は全く無い(時間的にも、労力的にも)。

どなたに読んで頂いても先ずお分かりになるように、これは単に発せられた質問に対し、どういう答え方(不必要な)回りくどい説明をせずに、問われたことだけに直截に回答したか、という事実の報告以外に、他の解釈の介在する余地などあり得ないだろう、と確信するのだが、如何であろうか?
ここには己の発言だけが「正論」だという主張の片鱗すら発見することは出来ないではないか。私の言っていることが本当に間違っているだろか?
言い換えると、素直に、正しく文脈を読み取り、文意を汲めば誤解の余地など全くと言ってよい程存在しない、という私の解釈に、本当に無理があるのだろうか?

お茶やアルコールを飲みながら、何人かの仲間たちと最近の社会情勢について雑談しながら愉しむことは、私自身嫌いでは無い。そういう井戸端会議的集まりにもそれなりの利点はあるだろう。

しかし、私には老若男女を交えた親睦会のリーダーを務める気は最初から無い。そういう会にも一参加メンバーとして、時間があれば参加してもよい、という気持ちはあるにせよ...。

一方、私にとって「詩をきっかけとして考える会」では、自身の勉強をすることに徹したい。ここでは、他人の面倒を見る気は無い。従って、会の理念として当初より”親睦会的要素”を極力排除することを目指して来たのは、会の流れを正しく把握して来られた方には改めて説明するまでもないことだろう。しかし、ともすれば現在の参加メンバーには、”親睦会”と勘違いされている向きも少なくないように見受けられる。

つまり、私の申す、いわゆる”勉強”の為には、余計な夾雑物を極力排し、テーマと直接向かい合い、これについて熟慮し、検証し、論証の結果、結論を導出する。その為に一番効果的と考えられる方法を模索しながら実施して行く。ただ、これに尽きるのみである。それ故、私自身の勉強や、その仕方に関心も興味もない方には参加する意味が殆ど無い、と言える。私自身の勉強に興味がある方、あるいは同じような姿勢で勉強してみよう、と考える方や、私の勉強について自分の方から啓蒙してやろう、と思われる方々のみが集まればよい、ということである。
もし、そういう方が私の他には誰一人存在しなくても、それはそれでよい、のである。

長保寺住職瑞樹氏が一人で瞑想し、己を高める、というのと同じことであり、或る面では、それが最も効果的な勉強方法かも知れない。何と言っても立てたテーマから迷走する夾雑物を排除する為にはベストであることは間違いない。

言ってみれば、これは単に「文章読解能力」の問題で、その入口で戸惑っているようでは、本題に入るまでに到底時間が足りない、と言う、ただそれだけの話である。

私には、単なる「親睦会」ではない「詩をきっかけとして考える会」に、割くべき時間はあるが、老人サロン的親睦会には暇のある時だけ参加することにしたい。

以上が私の率直な見解である。ヴァンサンカンなど会場を設けて行う会が、たとえ開催されなくなっても私の中では、自分が生きている限り「詩をきっかけとして考える会」が消滅することはないだろう。

5月の「詩をきっかけとして考える会」の日程案としては26日(土)もしくは19日(土)が挙がっているが、会の理念を正しく理解し得る方々のみの、ご意向次第でヴァンサンカンの会場予約を取ることにしたい。率直なご意見をお聞かせ願いたい。(文責: 城 久道)