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2011年7月13日水曜日

<一日一書>(33)「脱皮を全う出来なかった 蝉」


『今日は水曜日。
天気は昨日と打って変わって快晴、日射しは強いが、海岸縁は風が吹き抜け、どちらかと言えば心地よい。』


さて、今日の話を始めよう。

海に出るには具合のよい状態となって来た。しかし、朝の散歩の、この時間帯では、まだ海水浴場に人影はまばらで、ビーチパラソルもパラパラと点在するのみ。
沖には先日の4本マストのスクーナーが優美な姿を晒して停泊している。

今日、我が家には新記録を達成した人間が居る。それは満100歳の誕生日を迎えた、筆者の母、明治44年(1911年)生まれである。今の日本では100歳を迎えることが、そう珍しいわけでも無かろう。しかし、78年間一緒に暮らした(戦時中の一時期は学童疎開で母と離れて暮らした、また結婚後の数年間の別居期間もあるが)人間にとっても間近で観るのは初めての経験だ。

耳は殆ど正常に聞こえないし、居眠りの頻度も増え、話の理解力も格段に落ちたし、何よりも相手の話を聴くよりも、自分の伝えたいことだけを大声で発する。
それに惑わされず、如何にマイペースで取り仕切るかが、長男である筆者の、専らの務めとなっている。

話変わって、散歩の際、堤防へ出る階段の登り口右手にクマゼミが集まって大合唱をする木が植わっている。当然のことながら、その木の下の地中には、クマゼミの幼虫が多く住んでおり、この時期の夕刻から夜間、地中から木をよじ登ってきて脱皮する。そして、晴れた日の朝、略決まった時間帯に多数が群れて大合唱となるのだ。筆者が注目するのは、脱皮した蝉の脱け殻だ。今朝、今年初めての抜け殻2個を発見し、その一つを散歩の帰りに木の葉ごと折り取って、持ち帰り、それが机上にある。

いつものように、散歩の往路はなるべく海岸側を海の状態や、遠くの山脈を観察しながら歩き、コンクリート整地の端に到達したら、公園側に入り「万葉の小径」と名付けられた散歩道を、シンボルの丹頂の像をあしらった行き止まりまで進み、そこを廻ってから、林の中の復路を取ることにしている。復路の傍らには様々な植物が植えられているので、動物より苦手の植物をなるべく観察するようにして、遅まきながら学んでいる。

ところが、どうしても興味のある生き物の方に直ぐ目が行き、今日は珍しいものを観た。太いマツの幹に、ちょっと見慣れぬクマゼミの抜け殻を目にしたので、思わず手に取ってみた。抜け殻と見えたものに小さな蟻が少なからず取り付いている。その抜け殻とおぼしきものをよく観ると、背中に抜け出した筈の縦の割れ目が見当たらず、頭から背の部分に普通より盛り上がった薄水色部分と黒い二つの眼が見える。つまり、こういう事だ。このクマゼミは何らかの理由で、脱皮を終えることなく生命が尽きたのだ。昨日のように温度が下がり、雨の降る日とは夢にも思わず、地中から未だ観ぬ世界に胸をときめかせながら這い出して来たタイミングが最悪で、過酷な天候に耐えきれず力尽きたのか、それともヒトによる身勝手な環境破壊の影響で、突然変異か何かの異常を生じ、不自然に強固な蛹の外殻を持って生まれる運命に遭遇したのか、あるいはまた自然の摂理により、天敵にでも遭遇して完璧な成虫となる前に、息の根を止められたのかも知れない。到底、筆者に正確な判断は出来ない。

如何なる生き物も自然の摂理に反して生き延びることは出来よう筈も無いのだが、無節操にもそのことを自覚せずに、乱しているのがヒトという、地球上最悪の悪魔とも呼ぶべき生き物だ。二酸化炭素の抑制無き排出を初めとする環境破壊や、原発、核爆弾、それらのコントロールの失敗や、不見識、無責任なそれらの実験による放射性物質のばら撒きが、どれ程、他の罪のない生き物に不自然で、過酷な運命を押しつける結果となっていることか。

この不遜な癖に不感症の生物は、自らに、その撒いた種によるしっぺ返し受けてみて、初めて己の破廉恥な行動を認識する程度の能力しか有して居ないのだ。悲しいだけではない。恥を知れ!と叫びたい。

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